221年劉備(りゅうび)は関羽(かんう)の弔い合戦をする為、呉へ侵攻を開始します。
夷陵の戦いとは劉備軍VS孫権軍の戦いです。
蜀の家臣は関羽の弔い合戦を行おうとする劉備に反対意見を述べます。
しかし劉備は家臣の反対意見を聞かず、戦いを挑みますが敗北。
孔明は夷陵の戦いの後、「好尚同じからずと雖も公義をもって相取る
(こうしょうおなじからざるといえどもこうぎをもってあいとる)」と
側近にこぼします。
この名言の意味と夷陵の戦いを分かりやすく解説していきたいと思います。
この記事の目次
夷陵の戦いが起きた原因は
まず夷陵の戦いが起きた原因から分かりやすくお話したいと思います。
夷陵の戦いが起きた原因は呉の裏切りと関羽の死です。
呉は蜀との同盟を破棄し、南荊州を手に入れた後、関羽を捕えて殺害。
劉備は義兄弟である関羽が呉に殺された事を知ると、
呉に復讐を誓います。
蜀の群臣が反対するも…
劉備は群臣達を集め「義兄弟である関羽を殺した呉に対して
弔い合戦を行う」と宣言します。
蜀の五虎大将である趙雲(ちょううん)は「陛下。今は呉へ攻め込む時ではありません。
先に倒すべきは漢王朝を簒奪(さんだつ)した魏のはずです
魏を攻め滅ぼした後、関羽殿の弔い合戦を行うべきです。」と
反対します。
劉備は趙雲の反対意見に「決めた事じゃ。何も言うな」と
自らの意見を押し通します。
さらに他の家臣も反対意見を述べますが、
この家臣は劉備の怒りをかい、牢屋へぶち込まれます。
こうして劉備の決意が固い事を知った家臣らは反対する事を諦め、
劉備の意見に従う事にします。
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孔明は反対意見を述べたのか
蜀の家臣らは呉へ復讐戦を行うと決意を固めた劉備に対して、
反対意見を出します。
そんな中、孔明は反対意見を述べませんでした。
また蜀の軍師であるにも関わらず、対呉戦の戦略方針を打ち出しませんでした。
なぜ孔明は対呉戦に関して反対意見や戦略方針を打ち出さなかったのでしょうか。
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孔明が対呉戦に関わらなかった理由
孔明はなぜ積極的に対呉戦の作戦を提案しなかったのでしょうか。
それには二つの理由が考えられます。
一つ目の理由は彼が考えた戦略が原因です。
孔明は蜀が他の二つの国(魏と呉)に比べ、兵力や経済力が貧弱で
独力で魏を打倒する事は出来ないと考えておりました。
そのため呉と同盟し、蜀と呉が連携して魏へ侵攻を行う事で
魏を倒せると考えておりました。
孔明が対呉戦に関わらなかった二つの目の理由
二つ目の理由は関羽を殺されたことで、劉備が冷静な判断力を失っているため、
彼が呉軍と戦って何度か勝ちを収めれば、
冷静な判断力を取り戻すことができると期待したためです。
劉備が冷静な判断力を取り戻した後、
基本方針である蜀と呉の同盟を再度締結するためです。
この二つの理由から孔明は劉備に対呉戦の作戦を積極的に提案するべきではないと
考えます。
初戦は連戦連勝を重ねていく蜀軍
劉備は大軍を率いて呉へ侵攻を開始します。
彼は反対していた趙雲や対呉戦に積極的ではなかった孔明などの家臣を
蜀の守りに就かせます。
劉備軍は呉の領地へ侵攻すると、呉軍へ猛攻をかけ大勝。
その後も呉軍に連戦連勝します。
向かう所敵なしの劉備軍の兵士達は呉軍を侮り始めます。
陸遜の乾坤一擲の大作戦
陸遜(りくそん)は劉備軍が呉軍を侮っていると知ると、呉軍の全軍を率いて、
夜襲を敢行します。
陸遜はこの夜襲の時に、蜀軍の陣営に火計を用います。
彼が行った夜襲は成功し、蜀軍は壊滅的な被害を受けます。
劉備は少数の護衛と共に命からがら白帝城に退却。
こうして呉軍は蜀軍に大勝利を収める事に成功します。
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【諸葛孔明の名言】「好尚同じからずと雖も公義をもって相取る」
孔明は劉備が夷陵の戦いで大敗北をしたと知ると大いに嘆きます。
彼は側近に「もし法正が生きていれば、劉備を思いとどまらせることができ、
対呉戦を開いたとしてもこんな無様な負け方はしなかった」と
側近にため息交じりで語ります。
法正は元劉璋の部下で劉備が蜀に入って来た時、
家臣になり漢中攻略戦で目覚ましい活躍を見せます。
孔明は法正を高く評価しており、
「私と法正の性格は全く正反対だが、好尚同じと雖も、公義をもって相取る
(こうしょうおなじといえども、こうぎをもってあいとる)」と漏らします。
この名言の意味は法正とは性格の違いがあるけれども公の場になれば協力する
という意味です。
法正と協力して劉備の復讐戦に反対すれば、対呉戦は起きなかったかもしれません。
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三国志ライター黒田廉の独り言
孔明は数々の名言を残しておりますが、今回紹介した名言は現代にも通用する
言葉だと思います。
会社や官僚などの組織内で
私の気持ちやわだかまりを捨て、公の場で協力できる関係性を築く事が出来れば、
仕事に対しての生産性や効率性が格段に上がります。
現代の世でそんな割り切った対人関係を築くには並大抵の努力では難しいと思います。
もし築く事が出来るとすれば、よりよい組織運営が出来き、
組織にとって大いにプラスになる事間違いないと思います。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまた初めての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~。」
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