蜀には関羽(かんう)を筆頭に張飛(ちょうひ)、馬超(ばちょう)、黄忠(こうちゅう)、趙雲(ちょううん)の五人を勇猛な将軍として五人をひとまとめにして、五虎将軍と言われることになります。
また魏にも張遼(ちょうりょう)、徐晃(じょこう)、于禁(うきん)、張郃(ちょうこう)、楽進の五人を五将軍と任命して軍勢を率いさせておりました。
(※ホントは六人目の朱霊(しゅれい)を合わせて六将軍が正しいです。)更に後漢王朝が存続していた時代には呂布(りょふ)や高順(こうじゅん)のような名将達がいました。では魏の政権を奪い司馬家が打ち立てた晋には蜀の五虎将軍や魏の五将軍、呂布や高順に匹敵するような名将がいたのでしょうか。今回は晋には名将と言える人物がいたのかご紹介していきたいと思います。
この記事の目次
晋の時代に名将はいなかったのか・・・・。
司馬懿(しばい)は明帝・曹叡(そうえい)の死後、曹一族の権力者でライバルであった曹爽(そうそう)を権力の地位から突き落として、魏の権力を独占。
その後司馬懿の息子であった司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)に権力を引き継いでいきます。司馬昭は司馬家に反乱を起こした諸葛誕(しょかつたん)や魏の宿敵であり、父・司馬懿のライバル諸葛孔明が丞相をしていた蜀を滅亡させることに。
司馬昭の時代には鄧艾(とうがい)や鍾会(しょうかい)、陳泰(ちんたい)など多くの名将と言われる武将達がおりました。司馬昭が亡くなると息子の司馬炎(しばえん)は司馬昭の跡を引き継いで、司馬家の棟梁となります。
司馬昭の跡を継いだ司馬炎は魏の皇帝から禅譲を受けて、晋の初代皇帝として君臨することになります。晋の皇帝となった後は三国の最後の一国であった孫呉へ総攻撃を行い、討伐することに成功し天下統一を成し遂げます。しかしはじめての三国志の皆様は、司馬炎の配下に名将と言われる人物を聞いたことがありますか。
蜀の五虎将軍や魏の五将軍のような名将の名前を思い浮かべることができますか。多分あまり思い浮かべることができる読者の方は多いのではないのでしょうか。そんなことありません。晋の時代にもちゃんと名将と呼ぶにふさわしい人物がいました。晋の将軍のいったい誰の事を指しているのか気になると思いますので、早速ご紹介していきたいと思います。
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晋の名将と言われた人物:陸羊の交わりで有名な羊祜
晋の名将と言われた人物のトップバッターは陸羊の交わりで有名な羊祜(ようこ)です。羊祜がどれほどの名将かを紹介する前に羊祜の有名な故事成語である「陸羊の交わり」をご紹介したいと思います。羊祜は荊州方面の軍事指揮官兼統治権を持った役職を与えられ任地へ赴きます。こうして任地である荊州を統治し始めた羊祜は孫呉の将軍・歩闡(ほせん)が、孫呉から寝返って来ると報告を受けます。すると羊祜はすぐに援軍を率いて出陣。
しかし孫呉の名将・陸抗(りくこう)は歩闡が晋へ降伏したことを知るとすぐに出陣して、羊祜の援軍が到着する前に歩闡が篭城している西陵城(せいりょうじょう)を陥落させます。羊祜は歩闡を救出することができなかったため官位を落とされてしまいますが、陸抗の縦横機略な兵法に感心して陸抗と仲良くすることに。陸抗は羊祜から手紙が届くとすぐに返信し、絆を深めていくのでした。
お互い敵味方に分かれているため政治的な話は一切抜きにして、世間話や酒の話、兵法の話など多岐に渡りお互いの事をよく知っていくことに。そして羊祜は陸抗から酒が届くと部下達が「毒が入っていますよ」と心配の声を上げても、一切構うことなく一気に飲み干します。
また羊祜は陸抗が病にかかっていると聞くとすぐに薬を手紙に添えて送付。陸抗は羊祜から届いた手紙に添えていた薬を怪しむことなく飲んで、元気になったそうです。こうして二人は互いに敵味方を超えた親友となり、後世「陸羊の交わり」と言われる故事成語が生まれることになるのです。長々と羊祜のエピソードに付いてお話しましたが、このような敵味方を超えた友情を結べることも名将たり得る素質の一つだと思います。しかしこれだけで名将と言うには少し説得力にかけるため、もう一つ羊祜の名将足り得るエピソードをご紹介しましょう。
晋の名将・羊祜の名将足り得る所以その1:統治力
羊祜の名将足り得る所以は卓抜した統治力と秀逸な戦略にあると言えるでしょう。羊祜は陸抗に歩闡を討ち取られると荊州の統治を転換。今までは孫呉との国境となっている場所で絶えず小競り合いが起こっておりましたが、歩闡を討ち取られたことで陸抗と争うことの不利を感じ、国境での争いを止めて民衆を大事にしていくことにします。
羊祜は争いを止めて民衆を大事にしたことによって民心を得ることに成功し、兵糧もいくつもの蔵がいっぱいになるほどの量が溜まっていきます。また羊祜は国境において兵を用いて孫呉との国境争いを止めましたが、水面下ではしっかりと調略の手を孫呉の陣営に伸ばして、いつでも孫呉の将軍が寝返ってこれるような状況を作り出します。この羊祜の調略によって何人者孫呉の武将が晋へ寝返ってくることになります。更に羊祜は戦略面においても卓抜でした。
晋の名将・羊祜の名将足り得る所以その2:卓抜した戦略面
羊祜は親友・陸抗が亡くなった事を知ると孫呉討伐の戦略を描き始め、長江を益州から下っていけば簡単に孫呉を討伐することができると考えます。そして羊祜は益州刺史(えきしゅうしし)で元部下の王濬(おうしゅん)に「二千人程が乗れる大型船をいくつか作って欲しい。この大型船を用いて長江を下って一気に孫呉へ攻め込めば勝つことが出来るだろう」と船を造るように要請。
王濬は元上司・羊祜からの要請を受けて益州で船作りに励むことになります。羊祜は孫呉討伐に向けて準備が着々と進んでいく中、司馬炎(しばえん)に「孫呉討伐をするべきである」と提案。司馬炎は羊祜の進言に納得して孫呉討伐を行う決意をしていたのですが、群臣達の猛反対にあってしまい取りやめになってしまうのでした。羊祜は司馬炎に反対されて任地へ帰るのですが、孫呉の領内を偵察させて内情を知れば知るほど孫呉討伐を行うべきであると考え、再び司馬炎の元へ向かいます。
この時羊祜は病にかかっていましたが病を押して司馬炎の元に参上して、孫呉を討伐する際の作戦計画と戦術に付いて詳細に記した企画案を提出。司馬炎は羊祜が提案した孫呉討伐案について群臣と協議を行うことに。羊祜はこの協議が終わるまで待っておりましたが、病に体を蝕まれてしまい協議が終了するまで待てずに亡くなってしまうのでした。荊州を見事に治めた統治力と卓抜した戦略において、羊祜を晋の時代の名将と言えることができるのではないのでしょうか。
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三国志ライター黒田レンの独り言
晋の名将・羊祜。魏・蜀・呉の戦いが激しかった攻防期にもし羊祜が出現していたら、おそらく名将の名を刻んだことになっただろうと思います。その理由としてはどの州を任されてもしっかりと治めたであろう統治力。また羊祜が激戦と言われた国境地域に配置されたとしても、戦略面における卓抜した力があったため敵に侵略されて、土地を敵に渡すことをしなかっただろうというのが理由です。レンとしては羊祜が三国の攻防期に出現した場合魏に仕えて欲しいですが、蜀・呉に出現して仕えたとしても立派に一軍の将軍として、活躍できた可能性はかなり高いのではないのでしょうか。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志・呉書 陳寿著・小南一郎訳など
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