そして諸葛孔明よりも信頼された軍略の持ち主・法正。両軍師は智謀においては魏と蜀を代表する人だと思いますが、このふたりに共通する部分はあったのでしょうか。今回はこのふたりの共通部分についてご紹介していきたいと思います。
この記事の目次
郭嘉ってなにした人なの?
ふたりの軍師の共通部分を紹介する前に郭嘉の経歴を簡単に紹介しましょう。郭嘉は始め袁紹に仕えますが、袁紹が優柔不断で大した人物ではないと見抜くと彼の元を去ってします。
その後郭嘉は荀彧に見出されて曹操と面会することに。曹操は郭嘉と色々な事を語ると大いに感心し、彼をすぐに配下に加えます。また郭嘉も曹操の知略や政治、決断力等を気に入って曹操の配下として加わることになります。
こうして郭嘉は曹操の配下として加わると呂布討伐戦、官渡の戦い、烏桓討伐戦などで、曹操へ適切なアドバイスを行い多くの実績を残した軍略家として活躍することになります。簡単に郭嘉の人物紹介をしましたが、法正はどのような人物だったのでしょうか。
法正ってどんな人なの?
法正はどんな人だったのでしょうか。法正は元々劉備に仕えていた人物ではありません。彼は益州の主・劉璋に仕えていましたが、張松の誘いを受けて、劉璋を益州から追い出して、荊州の劉備を益州へ向かい入れようと考えます。
そして法正は劉備軍を益州へ向かえ入れることに成功し、劉璋を益州から追い出します。その後法正は劉備が益州防衛の要である漢中攻略戦で活躍しますが、この戦いの後病に倒れてしまいそのまま亡くなってしまいます。
正史三国志によれば劉備は彼の死を大いに嘆いたそうです。かなりざっくりとですが法正の経歴についてご紹介しました。ではここから法正と郭嘉の二人の似ているところを紹介していきましょう。
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郭嘉と法正の似ている所その1:君主に頼られた軍師
郭嘉・法正共に君主から大いに頼られた軍師です。郭嘉は官渡戦の最中、孫策が江東から北上して曹操の本拠地を攻撃するような素振りを見せます。曹操はこの情報を手に入れると大いに不安がり、郭嘉を招いて孫策の事を相談。
郭嘉は曹操から相談されると「孫策は多くの人を殺害して恨みをいっぱい買っています。しかし孫策は他人から恨まれていることを知りながら重く考えず、一人で狩りをしてる時もあるそうです。孫策が狩りをしている時に主人を殺された部下が孫策に襲いかかったら必ず殺されることになるでしょう。だから殿は孫策に関しては心配することはないと思います。」とアドバイス。
曹操はこのアドバイスを聞いて少し疑問に思いますが、郭嘉のアドバイスは見事に的中し孫策は刺客に殺害されてしまうのでした。曹操が郭嘉へ不安を相談しているのは郭嘉に対して大きな信頼を寄せているからだと言えるでしょう。では法正は劉備から信頼されていたのでしょうか。
劉備から抜群の信頼されていた法正
法正も劉備から大いに信頼されていた人物です。法正は孔明よりも後に仕えたにも関わらずすぐに劉備から重く用いられることになります。一例として劉備が劉璋を追い出して益州を統治することになります。この時多くの人材が劉備陣営の配下として加わり、新しく配下に加わった人々に役職へつけて仕事を任せていきます。そんな中、一人の人物をどのように処遇するかが話題になります。その人物の名前は許靖です。
劉備と孔明はこの人が能力が無い人物と見抜いて、劉備陣営で使わないことにします。法正は許靖の処罰に対して「許靖は能力が無い人物ですが、実は誰にも負けない能力を一つ持っているのです。それは彼の名声です。彼を今起用しなければ天下の人々は劉備は許靖を登用しないのか。と噂が立ち、有能な人材がこの地へ寄ってこなくなるでしょう。
有能な人材達は「チョー有名人許靖を起用しないなら、彼より有名じゃない私が劉備に仕えるなんて無理だ」と諦めてしまうからです。有能な人材を集めるためチョー有名人・許靖を活用して人材を集めましょうよ」とアドバイス。劉備は法正のアドバイスを採用して許靖を起用することに決めるのでした。劉備は孔明も許靖を起用することに反対していたにも関わらず、法正の案を採用したという事は並々ならぬ信頼を法正に寄せていた証左だと言えるでしょう。
郭嘉と法正の似ている所その2:優れた戦術眼
郭嘉と法正の似ている所その2は優れた戦術眼だと言えるでしょう。郭嘉は客将として養っていた劉備が徐州を奪って独立した際、曹操の家臣のほとんどが劉備討伐に反対。その理由は「曹操軍が劉備討伐に向かっている際、袁紹軍が攻め込んできたら勝てないから」と言って反対していました。
しかし郭嘉は「袁紹は優柔不断だから劉備討伐に向かっても、攻撃してくることはないでしょう。しかし袁紹と戦っているときに劉備軍が攻撃してくる方がはるかに怖い。だからすぐに劉備討伐に向かうべきだ」と曹操へ進言。曹操も劉備討伐を行おうと考えていたので、郭嘉の賛成意見を採用し、すぐに劉備討伐へ出陣します。そして袁紹は郭嘉の言うとおり、劉備討伐に向かっている間に曹操軍を攻撃しませんでした。郭嘉の戦術眼がとんでもなく優れていた事がお分かりになると思います。では法正は本当に郭嘉と同じくらい優れた戦術眼を持っていたのでしょうか。
郭嘉と同じくらい優れた戦術眼を持っていた法正
法正は漢中を曹操が占領して夏侯淵と張郃に守備を任せて北へ帰還したことを知るとすぐに劉備へ
「曹操が漢中を奪って益州を取らずに夏侯淵と張郃に関中守備を任せて帰ったのは、曹操の組織内部で不穏な動きがあったに違いありません。夏侯淵・張郃共に漢中守備をしっかりと行える人ではありません。今我らが全軍で漢中攻略へ向かえば、漢中を手に入れることは簡単で、上手くいけば涼州まで取れるかもしれません。」と進言。劉備はこの進言を受け入れて、すぐに益州の大半の軍勢を率いて、漢中を奪うべく出陣します。その結果は三国志好きなら知っていると思いますが、法正の進言の通りに漢中を奪うことに成功。
もし法正の進言を採用せずに漢中攻略を見送っていたら、漢中をしっかりと統治されて、奪う事ができなくなっていたかもしれません。また漢中から益州へ大軍を送り込まれて、劉備が益州から追い出されてた可能性もあったかもしれません。これらの事を考えると法正も優れた戦術眼をもった人材だったと言えるでしょう。
郭嘉と法正の似ている所その3:癖ありな性格
郭嘉と法正の似ている所その3は二人とも癖有りな性格だった事です。郭嘉は品行方正で人の模範たるような行動をするような人物ではなかったため、陳羣に度々怒られています。
しかし郭嘉は陳羣に怒られても態度を改めようとしませんでした。法正も自分の悪口を言ったり、自分に対して悪態を突いた人には復讐しています。しかし法正は自分に対して少しでも恩を与えたり、優しく接した人にはしっかりと返礼をしています。二人共ちょっと癖のある人物ですが、その癖を補ってあまりある能力を持っていたので、曹操や劉備からあまり注意されることはありませんでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は魏と蜀を代表する二人の軍師を紹介しました。
正史三国志の作者陳寿は法正を「法正は魏の人物でいえば郭嘉に比肩する人だった」と記しています。陳寿も法正と郭嘉の実績を調べた結果、同じ位の力量をもった軍略家として認めていたのではないのでしょうか。
参考:ちくま学芸文庫 正史三国志魏書・蜀諸など
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