合肥(がっぴ)城で張遼(ちょうりょう)に破れた孫権(そんけん)は、
復讐を誓い、今度は水軍と陸軍を駆使して、再び合肥城に侵攻しました。
しかし、その頃には、曹操(そうそう)率いる魏軍40万人が合肥に戻ってきていました。
呉は已む得なく魏と和睦
両軍は睨みあったまま、決定打を欠き、孫権は和睦を提案し、毎年、
呉が魏に決まった量の貢物を納める事で合意して兵を引きあげました。
西暦216年 曹操は魏王に即位
曹操は、合肥から帰還した翌年の西暦216年についに魏王に即位します。
この魏王即位により、緩んだ組織の基盤を固めようという考えでしたが、
それに反対する重臣も出ました。
曹操は、これに容赦せずかつての荀彧(じゅんいく)や荀攸(じゅんゆう)の
ように反対者に死を与えています。
翌年、呉において、蜀呉同盟の提唱者だった魯粛(ろしゅく)が死去しました。
それにより呉の総司令官には呂蒙(りょもう)が就きますが、
対蜀強硬派の呂蒙の行動はこの後、劉備に大きな悲劇をもたらす事になります。
さて、劉備(りゅうび)は、法正(ほうせい)の助言を入れてここで漢中の奪還を決意します。
どうして劉備は漢中にこだわるのか?
どうして、劉備が漢中を重視するのかと言うと、この漢中が、
長安に繋がる重要な通路になっていたからです。
ここを魏に抑えられると、蜀は危険で狭い通路を通り長安に出なければ
いけなくなるので、漢王朝再興を願う劉備は、
どうしても漢中を抑える必要があったのです。
それに漢中とは、劉備の先祖の劉邦(りゅうほう)が最初に
王に封じられた土地であり、漢王朝の原点ともいうべき場所でした。
曹操にとっては重要でなくても、劉備にとっては、漢中を抑える事は
測り知れない意味を持っていたのでした。
劉備軍動き出し曹操も応対をする
劉備は手始めに張飛(ちょうひ)と馬超(ばちょう)を下辦(かべん)に派遣します。
それを知った曹操は自ら出陣しようとしますが、
占い師の管輅(かんろ)が「今は動かない方がいい」と忠告します。
そこで曹操は、曹洪(そうこう)に5万の軍勢を与えて下辦に向かって進軍させました。
そして、それに加えて夏候淵(かこうえん)と張郃(ちょうこう)を派遣しました。
張郃は何で曹操軍にいるの?
張郃はかつては袁紹(えんしょう)の配下で猛将として鳴らしましたが、
官渡の戦いで袁紹が敗北すると、曹操に降っていたのです。
馬超は、この時に下辦に居ましたが偵察隊の呉蘭(ごらん)が運悪く曹洪に出くわします。
しかし、多勢に無勢ですから勝負にならず、大敗して下辦に逃げ戻りました。
馬超 対 曹洪
馬超は打ってでようかとも思いましたが、与えられた1万の兵力では、
曹洪の5万の兵力には対応できないと思い城に籠って、成都の劉備に報告し
その指示を待って動かないで待ちました。
ところが、曹洪も、馬超の陣営が静まり返っているので、
何か計略があるのでは?と考えて独断で兵を引いてしまいました。
この事で引き返した曹洪を、漢中に控えていた張郃は笑います。
張郃:「なんと腰抜けな事か! 動かない敵を恐れて逃げ帰るとは!」
曹洪が言い返せずに黙っていると、張郃は、、
張郃:「まあいい、ワシが戦というものの手本をお見せしよう、
張飛くらいなら、簡単に討ち取ってみせる」
と大言を吐くと、今度は自分が下辦に向かって進軍しました。
こうして、漢中の戦いは、馬超対曹洪から、
張飛対張郃へ主役が移っていく事になります。