三国志ファンの聖地の一つに数えられる関帝廟ですが、なぜ関羽が祀られているのかご存知でしょうか?
また、場所によって商売の神様(財神)や学問の神様と信仰する内容にも違いがありますよね。こうした背景には為政者の思惑や政治的背景、民間信仰など様々な要素が関係しています。
今回はそれらを紐解きながら関羽が祀られるようになった経緯を見ていきましょう。
関羽が祀られるようになった時期
関羽は襄陽の戦いで敗れて孫権に処刑されました。
三国志演義では関羽の死に関係した呂蒙が取り憑かれて殺されたり、
曹操も間もなく死んでしまうなど悪霊となったイメージがあります。それもあってか死後数百年の間はそれほど人気がなかったようです。
六朝時代の道教の神様を記した真霊位業図には劉備や諸葛亮、さらには劉邦の名前があるのに関羽は入っていません。人気が出てきて、祀られるようになったのは唐代以降と言われています。
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関帝廟の前身となった「武成王廟」
唐の10代皇帝肅宗は760年に武成王廟(武廟)を建立しています。これは唐王朝以前に活躍した名将10名を祀る(武廟十哲)場所なのですが、蜀漢からは諸葛亮のみが選ばれ、関羽は選考から漏れています。
その後、12代皇帝徳宗の時代に追加で64名を選出(武廟六十四将)し、武廟十哲と合わせて祀ることになりました。ここでやっと関羽も加えられ、武神として信仰されることに。これが関羽信仰の始まりであり、のちに関帝廟(この時点では関羽廟?)が増えていくきっかけとされています。
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初期の関羽信仰
唐代から北宋にかけての関羽信仰は関羽を軍神(武神)として祀っていました。北宋の8代皇帝徽宗は関羽に王侯の爵位を与え、その後も何度か追贈を続けています。
これには北方異民族から国を守護してほしいという願いがあったようです。南宋以降も引き続き追贈は行われたのですが、宋代はまだ明確に神として扱われてはいません。
南宋時代の「仏祖統紀」を始めとする書物では関羽が神将として登場しますが、いずれも僧侶によって召喚される脇役のような存在として描かれています。
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一転して商売の神様になる関羽
横浜関帝廟を始めとする多くの関帝廟では関羽を財神として祀っていますが、この信仰が生まれたのは宋代からという説があります。北宋政府は北方民族との戦争や外交政策などの軍事関連の費用で支出が膨大な金額となっていました。
それを補うために国が直接売買していた塩を、商人たちに卸して課税をする間接販売へと改定。その結果、税収は大きく増え、商人たちも莫大な富を築きました。大きな恩恵を受けた商人の中には、関羽の生国であり塩の産地としても有名な解州(解県)の塩を取り扱っていた山西の商人たちがいます。
商人たちは関羽を崇めるようになり、行商で訪れた地域の人たちも商人に習って関羽を信仰したことで財神や商売繁盛という信仰が生まれました。(商人が関羽を信仰した理由は諸説あります)
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帝位が贈られる
関羽に帝位が贈られ有名な「関聖帝君」となるのは明の万暦帝の時代です。1578年に「協天護国忠義関聖大帝」、続いて1613年に「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」が贈られています。
関聖帝君は後者の略称です。
また、最初の贈られた諡号では「忠義」の文字が入っていますが、これは元から明にかけて三国志平話や三国志演義などの書物が民間に広まり、忠義の人としての認識が広まったためと思われます。
「三界伏魔大帝」については江南における道教信仰が元になっていて、仏教における三界(欲界、色界、無色界)の悪魔を退治する神様といった意味合いです。この神号を得たことで関羽は道教において正式に神様として認められました。
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清代に関羽信仰が拡大
明代で関羽信仰は完成したと言われていますが、清代では半ば強引に信仰が広められています。清では関帝の助けによって中華統一を果たしたと考えられていたため、国を挙げて守護神として奉じました。関帝廟のない村がなくなるほど全国的に信仰を広めた結果、中国で随一と言えるほど有名な神様になったのです。
また、清になってからも諡号の追贈も続き、6代目乾隆帝の代で「山西関夫子」が贈られるといよいよ儒教の始祖・孔子と同格として扱われます。
そこから孔子廟(文廟)と関帝廟(武廟)は文武廟として同じ場所に建立されるようになりますが、1966年から始まった文化大革命の中で儒教は弾圧を受け、文廟の大半は取り壊されました。残った関帝廟では儒教の名残で学問の神様として祀られています。
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三国志ライターTKの独り言
筆者は関羽ファンを自称しながらも関帝廟に行っただけでテンションを上げ、それ以外の信仰や背景については全く無頓着でした。次に関帝廟を参拝する時はもうちょっと細部を見て歴史の重みに浸ろうと思います。
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