諸葛亮は劉備に天下三分の計を授けた人物であり、それには益州と荊州の領有が不可欠であるとされています。
しかし、関羽が樊城で戦っている最中も、敗走して麦城で孤立した際も援軍を送っていません。
諸葛亮にとって荊州を失うことは戦略における基礎部分が崩壊することを意味しているわけですが、関羽を救わなかったのには理由があるのでしょうか?
今回は諸葛亮と関羽の関係性を紹介しながら援軍を送らなかった理由について考察していきたいと思います。
この記事の目次
関羽をヨイショする諸葛亮
三国志演義においては諸葛亮が劉備に仕えた当初、関羽と張飛が反抗的な態度を取ったり、諸葛亮が赤壁の戦いの追撃戦や荊州南部攻略において関羽に仕事を与えないといった2人に関するエピソードが満載です。
しかし、正史においては劉備と諸葛亮の関係に不満を持ったという記述や新参者の馬超の様子を伺う関羽に対して、「馬超は凄いけど張飛と同レベル、髭どのには敵いませんよ」という手紙を送っていることくらいしかありません。
ただ、この手紙では諸葛亮が関羽を愛称で呼んでいますし、関羽も諸葛亮の言葉に満足している点から関係性は悪くなかったものと推測できます。
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関羽の諸葛亮に対する評価
関羽と言えば前述した馬超との立ち位置を気にしたり、前将軍に任命された際に黄忠や馬超と同列になるのが嫌だと不満を漏らすなど上下関係に厳しい面を持ち合わせています。
しかし、諸葛亮に対しては特に不満を漏らした様子がありません。例えば、劉備が入蜀を果たした際に関羽と諸葛亮は二人で荊州の守備を任されていますが、その時の諸葛亮の肩書は軍師中郎将と荊州3郡(零陵、桂陽、長沙)の統治役、関羽は蕩寇將軍と襄陽太守です。
肩書の上では関羽の方が上位にあるわけですが、襄陽太守は名目だけで実はないので、統治という役割を与えられている諸葛亮の方が実際の権限は上と言えるでしょう。
また、関羽は呂蒙の後釜となった陸遜を若造と舐めていますが、若くして大役を与えられた諸葛亮に噛み付いていないところを見ると一目置いていたのでは無いかと考えられます。
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関羽を見殺しにした理由
中には諸葛亮が関羽と不仲で見殺しにしたという説もありますが、やはり荊州が重要拠点であることを考えると個人的な私怨で援軍を送らないという考えには賛同できません。
ではどうして関羽は孤立無援で最期を迎えたのでしょうか?
1つ考えられるのは漢中での戦が終わったばかりで兵が不足していたという可能性です。
劉備軍は218年から関羽が北伐を開始する直前までの1年余りを曹操軍との戦に費やしています。結果的には漢中を奪っているものの、損耗も激しかったことを考えれば休息が必要だったはずです。
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【北伐の真実に迫る】
一兵も送らなかったのはなぜ?
いくら兵力が不足していたとはいえ、要地をみすみす敵に渡すことなどあるのでしょうか?
最低限の兵は残っているはずですし、多少無理をすれば多少の援軍は送れたように思います。ここで考えられるのは情報の整理が追いつかなかったという可能性。関羽のいた荊州北部から漢中までは現代の整備された道で700kmほど、成都までは1250kmほど離れています。
当時の早馬は乗り継ぎも合わせると1日に千里(約500km)は走ったと言われているので、片道に要する時間は2〜3日ほど。益州が山間部であったことを考えても往復1週間から10日、長くても2週間といったところでしょう。
そのことを踏まえた上で樊城の戦いを見ていくと戦況の変化が激しく、さらに前半は関羽が優勢だったこともあって援軍の手配が遅れたとも考えられます。
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樊城の戦いの動向
関羽が出兵したのは219年の7月と言われていて、長雨に乗じて于禁の七軍を水没させ、樊城と襄陽を包囲したのが8月頃です。
加えて許昌付近でも反乱が起きるなど関羽にとっては追い風が吹いている状況だったので、この時点で援軍を送ることは考えていなかったはず。
しかし、閏10月には陸遜や呂蒙が関羽の背後を攻撃し始め、12月には関羽が捕虜となり斬首されています。
それ以前に徐晃によって関羽は敗走させられているので、およそ2、3ヶ月の間で関羽は一気にピンチに陥り、捕まってしまったわけです。そう考えると援軍の準備から派遣、到着までが間に合わなかった可能性があります。
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