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鄧艾はどんなルートで蜀を急襲したの?前人未到の過酷な山越えの真実


 

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鄧艾(トウ艾)と一緒に木を切り蜀に前進する鄧忠(トウ忠)

 

魏の武将、「鄧艾(とうがい)」は蜀を滅亡させた最大の功労者と言われています。

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は蜀攻略戦の際、前人未到のルートを進み、蜀を降伏させたといいます。かなり困難な道を進んだそうですが、どのようなルートを選んだのでしょうか。先ずは鄧艾のプロフィールから紹介しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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貧しさとハンデを克服し、武将となる鄧艾

屯田民だった若き鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は早くに父を亡くし、母子で貧しい暮らしをしていました。

 

鄧艾

 

ある日曹操(そうそう)が故郷を侵略し、鄧艾親子は「屯田(とんでん)民」(移住させて新田開発をさせる)として移住させられることになりました。そこで鄧艾は12から13歳くらいの時、役所に出仕することになります。

 

吃音で悩まされた鄧艾(トウ艾)

 

しかし、鄧艾は「吃音」というハンデがあり、周囲に疎まれていました。「吃音」とは話す時に同じ音を繰り返したり、頻繁に口ごもったりすることです。

 

農業の知識が豊富な鄧艾(トウ艾)

 

また、鄧艾には趣味のようなものがあり、それは山などにいっては戦の場面を想像し、測量し、地図に印をつけたりすることでした。これが後の武将としての活躍につながってくるのです。

 

出世しても農耕の必要性を説く鄧艾(トウ艾)

 

のちに鄧艾は魏の都に行く機会を得て、司馬懿(しばい)に謁見することが出来ました。そこで司馬懿に才能を認められ、中央で働くことになります。その後は農政や、異民族の慰撫、謀反の鎮圧、蜀の北伐への対応等武将としても活躍しました。

 

魏国、ついに蜀征伐を決意、鄧艾も従軍!

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

蜀は度重なる北伐による国力の疲弊と、蜀の君主劉禅(りゅうぜん)が宦官を徴用しまともな政治をせず、国内が乱れていました。

 

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

そこで当時の魏の権力者「司馬昭(しばしょう)」は蜀征伐を決意します。司馬昭は鄧艾と鍾会(しょうかい)に蜀を攻めるよう命じます。

 

剣閣を攻めまくる鍾会、籠城する姜維

 

緒戦は破竹の勢いで進んだ魏軍でしたが、蜀の名将姜維(きょうい)は、堅牢な「剣閣」に立てこもります。ここは蜀への入り口であり、ここはなんとしても落とさなければならない要所でした。

 

鍾会から降伏するようにと送られた手紙をシカトする姜維

 

しかし、姜維は頑強に抵抗し、なかなか剣閣を落とすことが出来ません。鐘会は撤退も検討しますが、鄧艾はある提案をします。それは剣閣を迂回し、ほとんど誰も通らないルートから蜀を急襲しようというものでした。

 

農業の知識を使って富国強兵に努める鄧艾(トウ艾)

 

これは認められ、鄧艾は前人未到のルートで蜀に迫ることになります。

 

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鍾会特集

 

 

鄧艾の蜀急襲ルートとは?

祁山、街亭

 

鄧艾は剣閣を迂回し、「陰平郡(いんぺいぐん)」(現在の甘粛省文県あたり)から前人未到の山岳地帯を越え蜀の城がある「江油(こうゆ)」(現在の江油市北部)を目指しました。マップで確認するならば、「甘粛省文県(かんしゅくしょうぶんけん)」から「(ふう河」という川の近く「平武県(へいぶけん)」辺りを確認していただければわかると思います。この陰平から江油の間は現在でも2000メートル級の山々が連なっており、鄧艾はかなり過酷な山越えをしたと考えられます。

 

毛布に包まり崖を転げ落ちる鄧艾(トウ艾)

 

正史「三国志」によるとこのルートを鄧艾は「山に穴をあけ道を通し、谷には橋を架け、鄧艾も自ら毛布にくるまり谷を転がって進んだ」と書かれています。鄧艾がこのルートを進んだのは10月から11月で、かなり気温も低く、過酷な行軍だったと考えられます。

 

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蜀を降伏させる

鄧禹と兵士

 

苦労して江油に鄧艾軍は到達します。突然の敵軍に驚いた江油の守将はあっさりと降伏してしまいます。そこで補給に成功した鄧艾軍は更に?河を南下し、蜀の首都成都を目指します。

 

諸葛瞻

 

蜀は諸葛亮(しょかつりょう)の息子諸葛瞻(しょかつせん)を迎撃に向かわせます。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

両軍は綿竹(めんちく)(現在の綿竹市付近)で激突。始めは破れますが、鄧艾は諸将を叱咤し、見事に諸葛瞻を撃退。もはやここまでと思った蜀の君主劉禅は鄧艾に降伏し、蜀は滅亡することになったのです。

 

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蜀漢の滅亡

 

鄧艾死す

蜀を滅ぼし己の功を自慢しはじめる鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は蜀を降伏させ、多大な恩賞を手にして蜀の支配の主導権を握ることになります。しかし、その地で勝手に敵将に官位を与えたり独断専行が目立つようになります。

 

鍾会に謀反の疑いを讒言され処刑される鄧艾(トウ艾)

 

そこを野心がある鍾会に嗅ぎつけられ、朝廷に「謀反の恐れあり」と讒言されてしまいます。鄧艾は逮捕され、のちに殺されてしまいます。

 

囚人護送車に乗せられドナドナ状態のトウ艾(鄧艾)とトウ忠(鄧忠)

 

鄧艾の子孫は晋の時代になって名誉が回復され、召し出されています。悲劇的な最期を迎えた鄧艾ですが、様々な困難を乗り越えて功績をあげた鄧艾は中国でも尊敬されており、今でも「鄧艾(びょう)」が残っています。

 

鍾会の乱

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

鄧艾のたどったルートは実際の地図を見てみるとかなり難所だったことがわかると思います。グーグルマップだと正に山ばかりです。いまでもところどころに三国志当時と同じ地名が残っていて、地図を見ていると面白いですよ。

 

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トウ艾

 

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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