魏の武将、「鄧艾」は蜀を滅亡させた最大の功労者と言われています。
鄧艾は蜀攻略戦の際、前人未到のルートを進み、蜀を降伏させたといいます。かなり困難な道を進んだそうですが、どのようなルートを選んだのでしょうか。先ずは鄧艾のプロフィールから紹介しましょう。
貧しさとハンデを克服し、武将となる鄧艾
鄧艾は早くに父を亡くし、母子で貧しい暮らしをしていました。
ある日曹操が故郷を侵略し、鄧艾親子は「屯田民」(移住させて新田開発をさせる)として移住させられることになりました。そこで鄧艾は12から13歳くらいの時、役所に出仕することになります。
しかし、鄧艾は「吃音」というハンデがあり、周囲に疎まれていました。「吃音」とは話す時に同じ音を繰り返したり、頻繁に口ごもったりすることです。
また、鄧艾には趣味のようなものがあり、それは山などにいっては戦の場面を想像し、測量し、地図に印をつけたりすることでした。これが後の武将としての活躍につながってくるのです。
のちに鄧艾は魏の都に行く機会を得て、司馬懿に謁見することが出来ました。そこで司馬懿に才能を認められ、中央で働くことになります。その後は農政や、異民族の慰撫、謀反の鎮圧、蜀の北伐への対応等武将としても活躍しました。
魏国、ついに蜀征伐を決意、鄧艾も従軍!
蜀は度重なる北伐による国力の疲弊と、蜀の君主劉禅が宦官を徴用しまともな政治をせず、国内が乱れていました。
そこで当時の魏の権力者「司馬昭」は蜀征伐を決意します。司馬昭は鄧艾と鍾会に蜀を攻めるよう命じます。
緒戦は破竹の勢いで進んだ魏軍でしたが、蜀の名将姜維は、堅牢な「剣閣」に立てこもります。ここは蜀への入り口であり、ここはなんとしても落とさなければならない要所でした。
しかし、姜維は頑強に抵抗し、なかなか剣閣を落とすことが出来ません。鐘会は撤退も検討しますが、鄧艾はある提案をします。それは剣閣を迂回し、ほとんど誰も通らないルートから蜀を急襲しようというものでした。
これは認められ、鄧艾は前人未到のルートで蜀に迫ることになります。
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鄧艾の蜀急襲ルートとは?
鄧艾は剣閣を迂回し、「陰平郡」(現在の甘粛省文県あたり)から前人未到の山岳地帯を越え蜀の城がある「江油」(現在の江油市北部)を目指しました。マップで確認するならば、「甘粛省文県」から「ふう河」という川の近く「平武県」辺りを確認していただければわかると思います。この陰平から江油の間は現在でも2000メートル級の山々が連なっており、鄧艾はかなり過酷な山越えをしたと考えられます。
正史「三国志」によるとこのルートを鄧艾は「山に穴をあけ道を通し、谷には橋を架け、鄧艾も自ら毛布にくるまり谷を転がって進んだ」と書かれています。鄧艾がこのルートを進んだのは10月から11月で、かなり気温も低く、過酷な行軍だったと考えられます。
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蜀を降伏させる
苦労して江油に鄧艾軍は到達します。突然の敵軍に驚いた江油の守将はあっさりと降伏してしまいます。そこで補給に成功した鄧艾軍は更に?河を南下し、蜀の首都成都を目指します。
両軍は綿竹(現在の綿竹市付近)で激突。始めは破れますが、鄧艾は諸将を叱咤し、見事に諸葛瞻を撃退。もはやここまでと思った蜀の君主劉禅は鄧艾に降伏し、蜀は滅亡することになったのです。
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鄧艾死す
鄧艾は蜀を降伏させ、多大な恩賞を手にして蜀の支配の主導権を握ることになります。しかし、その地で勝手に敵将に官位を与えたり独断専行が目立つようになります。
そこを野心がある鍾会に嗅ぎつけられ、朝廷に「謀反の恐れあり」と讒言されてしまいます。鄧艾は逮捕され、のちに殺されてしまいます。
鄧艾の子孫は晋の時代になって名誉が回復され、召し出されています。悲劇的な最期を迎えた鄧艾ですが、様々な困難を乗り越えて功績をあげた鄧艾は中国でも尊敬されており、今でも「鄧艾廟」が残っています。
三国志ライターみうらの独り言
鄧艾のたどったルートは実際の地図を見てみるとかなり難所だったことがわかると思います。グーグルマップだと正に山ばかりです。いまでもところどころに三国志当時と同じ地名が残っていて、地図を見ていると面白いですよ。
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