「三国志最強は誰か?」この問いは三国志ファンなら誰しも一度は考えたことがあるのではないでしょうか?
おそらく、「三国志最強は誰か?」と聞かれたら、皆さんそれぞれ思い思いの「最強武将」の名を挙げるでしょう。
このように、あまりにも多くの英雄たちが登場するばかりに、明確な「最強」が決まらないのも、三国志の魅力の一つではないでしょうか。
今回は唐代に定められた「武廟六十四将」を参考にして、そんな「三国志最強論争」に、古代中国の唐の時代の人々はどう考えていたのか、という側面から切り込んでみたいと思います。
関連記事:【新解釈・三國志】なぜ呂布は嫌われモノ董卓の部下なの?
武廟六十四将とは?
武廟六十四将は唐の時代の782年(建中3年)に皇帝の命令によって定められたもので、唐より前の時代を代表する六十四人の武将を選抜し、伝説的な軍師である太公望の廟に合祀したものです。つまり、唐代の史家たちが選んだ「最強武将」たちということになります。
武廟六十四将が選ばれた唐の時代、有名な『三国志演義』はまだ著されていません。つまり、武廟六十四将では、物語である『三国志演義』の創作に満ちた記述の影響を受けず、純粋に正史に書かれた功績をもとに、「三国志最強」を選んでいることになります。
『三国志演義』が好きという読者の皆さまはご不満かもしれませんが、この記事は『三国志演義』以前の中国の人々はどのように「三国志」を見ていたのかを知る手掛かりを探るということで、ご容赦ください。
関連記事:六鞱(りくとう)とはどんな本?太公望が武王にマジギレ?
関連記事:太公望とはどんな人?全ての軍師の祖になった遅咲き賢者
蜀:関羽・張飛
武廟六十四将に蜀からランクインしたのは関羽と張飛です。二人とも「三国志」を代表する猛将ですので、この二人のランクインについては文句のつけようがないでしょう。
関羽と張飛の功績については、このウェブサイトの読者の方々に対して、改めてここで説明する必要もないと思います。
しかし、ここで驚くべきなのは、かの有名な諸葛亮孔明がランクインしていないことです。後で述べますが、呉では周瑜がランクインしているのにもかかわらず、蜀の諸葛亮はランクインを逃しています。
諸葛亮の神算鬼謀や超人的活躍はそのほとんどが『三国志演義』の創作だと言われています。これを考えれば、『三国志演義』成立前の唐の時代において、武将としての諸葛亮の評価は高くないというのもうなずけるのかもしれません。
関連記事:もしも第一次北伐に関羽が生きていたらどうなった?諸葛亮と関羽の共同作戦を考えてみた
関連記事:関羽の樊城攻めは単独行動だった?
魏:鄧艾・張遼
魏からは鄧艾と張遼がランクインです。鄧艾は鍾会とともに蜀を滅ぼした魏の将軍です。
263年に蜀を攻めた魏軍は、姜維の守る剣閣を前に攻めあぐねますが、鄧艾は陰平郡より険しい間道を伝って蜀を攻めるという奇策を実行に移し、数万の兵を率いて道なき道を踏破し、ついには要害の剣閣を迂回して成都を攻め落とし、蜀を滅亡させました。
これを見る限り、やはり、三国時代の三国の一角である蜀を滅ぼしたという功績は唐の時代の人々にとって高く評価されていますね。
一方、鄧艾と共に蜀を滅ぼした鍾会がランクインしていないのは、鍾会には蜀を滅ぼした後に反乱を起こして殺されたという汚名があるからでしょうか。
魏からもう一人ランクインしたのは、泣く子も黙る猛将張遼です。張遼の活躍は有名ですが、張遼の最大の功績はなんといっても呉との数々の戦いでしょう。
呂布の配下から曹操に帰順した張遼は長年、呉との国境である合肥に駐屯し、呉の侵攻をはねのけ続けます。
ある時には、呉の孫権自らが率いる大軍をわずかな兵で迎え撃ち、楽進・李典らとともに圧倒的多数の呉軍を撃退するという大功を挙げています。
少ない兵力で呉との戦いを有利に進め続けた張遼は呉の人々に恐れられ、「張遼が来るぞ(遼来遼来)」と言えば泣く子も黙るほどだったと言われています。
「泣く子も黙る」ということわざのもとになった猛将中の猛将張遼のランクインも、文句のつけようがないのではないでしょうか。
関連記事:「泣く子も黙る」ということわざはどうやった生まれたの?張遼の評価に迫る
関連記事:戦下手な皇帝 曹丕を支えた張遼、凡庸な皇帝との絶妙な関係性に迫る
呉:周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗
呉からはなんと4名がランクインしています。『三国志演義』では何かと影の薄い呉ですが、唐代の人々からは呉の武将たちが非常に高く評価されていたことがうかがえますね。
まず一人目は周瑜ですが、この人は特に有名ですね。
呉の基礎を築いた孫策の義弟にして親友であり、孫策の死後は孫権を支え、赤壁の戦いでは曹操の大軍を見事打ち破っています。曹操の天下統一を阻んだ周瑜がランクインするのは当然と言えるでしょう。
二人目は呂蒙です。彼は、武廟六十四将にも選ばれた名将関羽を討ち破っています。なお、関羽の敗北は魏と呉の協力によるものであり、呂蒙は独力で関羽を破ったわけではありません。
また、関羽の死後、呂蒙もあまり活躍することなくすぐに没しています。このようなところはありますが、それでもやはり名将と名高い関羽を破ったことで、呂蒙がランクインしているのでしょうか。
三人目と四人目は陸遜・陸抗の親子です。陸遜は周瑜・呂蒙亡き後の呉を支えた名将であり、夷陵の戦いでは関羽の仇討ちに燃える劉備の大軍を打ち破り、呉の危機を防いだ救国の英雄です。
陸遜は、その後も魏との戦いで活躍しますが、最後には宮廷の権力闘争に巻き込まれ、非業の死を遂げました。その父親の汚名を晴らしたのが陸抗であり、陸抗は孫権亡き後の呉をほぼ一人で支え続け、陸抗の存命中には魏・晋と言えども呉を滅ぼすことはできませんでした。
関連記事:陸遜はどんな最期を迎えたの?悲劇の英雄、その全貌を解説!
三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか?
武廟六十四将を見れば、『三国志演義』の成立する前の時代において、人々が「三国志」をどう見ていたか、ということが垣間見えます。諸葛亮の評価が思ったより低く、呉の評価が予想以上に高いという点は驚きでしたね。
日本の「三国志」関連作品はどうしても『三国志演義』に準拠しているものが多いので、現代日本人の三国志観には『三国志演義』の影響が大きくなってしまっていますが、時には『三国志演義』から離れてみると、また全く異なる三国志像が現れるのです。
関連記事:武廟十哲に諸葛孔明が選ばれている理由は何?中国名将ランキングを推察
関連記事:闇に葬られた後継者?呂蒙の後継者は陸遜ではなく朱然だった?