曹真とはどんな人?蜀を滅ぼす計画を立てた魏の大将軍の生涯に迫る

2022年1月1日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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曹真

 

曹真(そうしん)は字(あざな)を子丹(したん)と言い、曹一族の出身です。曹操が一豪族に過ぎない頃から付き従って窮地を何度も救い、曹操死後は諸葛亮の北伐に対処し逆に蜀に攻め込んで滅ぼそうと画策しますが大雨に祟られて失敗し、その後病死しました。今回は魏の重臣、曹真について解説します。

 

 

父が曹操に従い敵に襲撃され死亡

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

曹真の父は曹邵(そうしょう)と言い忠義に厚く才智がある人で曹操とも親しい関係でした。曹操が反董卓の義兵を挙げると曹邵も呼応して人を集めますが沛国の相は董卓派で先手を打って曹操を襲撃、曹操は逃れますが曹邵は殺されます。

 

一人で逃げる曹操

 

しかし、根拠地礁でこんな目に遭うなんて曹操はどれだけ先祖の地で嫌われているのでしょうか?ほとんど劉備並に地元で人望がありません。

 

曹真を引き取り養う曹操 +曹丕

 

さて、窮地を切り抜けた曹操ですが、孤児になった曹邵の子曹真が哀れでならず招き寄せて我が子として扱い曹丕と同じ家で寝起きさせました。

 

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精鋭虎豹騎を率い夏侯淵死後は後任に

後ろ向きになって弓矢を放ち虎を倒す曹真 虎豹騎

 

哀れみから曹真を養育した曹操ですが、曹真はすぐ軍事的な才能を見せ始めます。狩猟の最中に虎に襲われた曹真は馬で逃げる途中、身をひねって虎を射て見事射殺。これは騎馬民族の射撃法パルティアンショットのようですが、曹操はその話を聞いて褒め称え曹真に虎豹騎(こひょうき)を率いさせます。その後、曹真は曹洪に従い、劉備の部下を下辯に撃破し中堅将軍に昇進しさらに長安に至って中領軍に昇進しました。

 

弓の名人・黄忠

 

ここで、族叔父の夏侯淵が定軍山で黄忠に討たれる大事件が発生。曹操は事態を憂慮しますが、曹真を征蜀護軍(せいしょくごぐん)とし死んだ夏侯淵の後任に充てました。ここに曹操が曹真を夏侯淵に匹敵する人物として重んじていた事実が明らかになります。

 

皇帝に就任した曹丕

 

西暦220年に曹操が死に曹丕が即位すると曹真は鎮西将軍となり、雍州と涼州を都督し難しい関中方面を統治します。

 

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馬が動かした中国史

 

 

曹丕の信任を受け、曹叡の時代に大将軍に昇進

司馬懿と曹叡

 

黄初(こうしょ)3年(西暦222年)曹真は洛陽に帰還、曹丕は曹真を上軍大将軍として中外諸軍を監督するように命じ節鉞(せつえつ)(マサカリ)を与えられます。ちなみに節鉞とは、首を切り落す道具で刑罰の象徴、君主の特権でした。つまり、曹真は曹丕の権力を代行し魏軍を監督する事を任された事になります。

 

曹叡に蜀を征伐することの必要性を説く曹真

 

その後の曹真は夏侯尚と共に孫権討伐に功績を挙げ、黄初7年(226年)に曹丕が病に倒れると、曹真と陳羣(ちんぐん)と司馬懿が遺言を受け、曹叡を補佐するように命じられます。

 

魏の重鎮になった曹真

 

こうして曹真は大将軍の地位に昇進しました。

 

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魏延特集

 

 

諸葛亮を手玉に取る活躍

バチバチやりあう孔明と曹真

 

劉備の死後、蜀では諸葛亮が劉禅を擁立して台頭します。西暦228年、諸葛亮は北伐軍を起こし祁山を包囲、住民工作で南安・天水・安定の三郡を離反させました。劉備亡きあと、蜀は自滅すると楽観視していた魏では衝撃が走ります。

 

張コウ 張郃

 

曹叡は士気を回復させるため自ら長安まで進軍、大将軍曹真を対北伐軍指揮官とし大軍を与えて郿に進駐させ、同時に張郃に命じて街亭で馬謖を撃ち破ります。

敵に囲まれる馬謖

 

これにより、天水と南安はすぐに魏に降伏しましたが、安定の民、楊條(ようじょう)は住民や役人を捕まえて月支城(げっしじょう)という小さな城に籠城しました。曹真は月支城包囲を部下に任せず、自ら包囲し魏の本気度を見せつけます。楊條は包囲軍を指揮するのが大将軍の曹真と聞いて驚き戦意喪失。

青州兵(兵士)

 

「大将軍が来たからには抵抗しても仕方ない降伏しよう」と自分を縛って出頭。曹真は手間なくして三郡を平定しました。

 

郝昭(かくしょう)は陳倉城で孔明を撃退した

 

さらに曹真は、諸葛亮が祁山(ぎざん)を諦め今度は陳倉から出ると予想。将軍郝昭(かくしょう)と王生(おうせい)に陳倉を守らせ荒れ果てた城を修築させます。予想は的中し諸葛亮は翌春に陳倉を攻めるも抜けず、またしても敗北を喫しました。

 

こうしてみると曹真は諸葛亮の計略をことごとくひっくり返している事が分かります。曹操、曹丕に信任された男は並の将軍ではなかったのです。

 

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三国志主要戦図一覧

 

 

蜀討伐計画を立案し実行に移すが…

韓信vs孔明

 

曹真は数々の功績で太和4年(230年)大司馬に任命され、さらに朝廷で帯剣を許され小走りに走らなくてもよい特権を得ます。ここで曹真は「攻撃は最大の防御、小癪(こしゃく)な諸葛亮が打って出る前にこちらから攻め込み蜀を滅ぼしましょう」と曹叡に進言し許可されました。

 

三国志 蜀の桟道(街亭)

 

かくして曹真は230年の8月に長安を出発し子午道(しごどう)より南下、司馬懿は別軍を率い、漢水を遡上し南鄭で合流しようと約束します。

 

それ以外にも斜谷道や武威より漢中に入る魏軍もあり、蜀の命運もここまでかと思われましたが、無情にも大雨が一ヶ月も降り続き桟道があちこちで崩壊します。

 

 

曹真はそれでも帰還しませんでしたが、曹叡が曹真の心中を察して帰還を命じ魏軍は退却しました。諸葛亮は大雨により滅亡を免れる事になります。

 

リベンジを誓う曹真ですが、洛陽に帰還してから病が重くなり曹叡の見舞いも空しく太和(たいわ)五年に亡くなりました。もし、曹真の命があと数年長ければ、蜀漢は263年を待たずに滅んでいたかも知れません。

 

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苦労人で思いやり深い性格

雨の中進軍する曹真

 

曹真は若くして孤児になり大変な苦労したせいで、人に対して親切で優しい性格でした。

 

部下の兵士に褒美(お金)を分け与える曹真

 

戦場でも大将風を吹かせる事なく、兵士の労苦に付き合い悩みを聞いてやり、兵士の褒美が足りないと自腹を切ってまで支給したので兵士は皆、曹真将軍の下で役に立つ事を願ったそうです。

 

また、曹真には宗族の曹遵(そうじゅん)と同郷の朱讚(しゅさん)という友人がいましたが、2人が早くに亡くなると2人の息子に自分の領地を分けたいと願い出、殊勝な心掛けであると許され2900戸の食邑(しょくゆう)から、それぞれに百戸を分けました。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

ちなみに食邑とは、税金を徴収する事が認められた世帯の事であり、曹真は2900戸の家々から決められた税金を徴収する事を許されている事になります。この食邑は官位や役職と違い当人だけでなく死後は子孫に相続されるので、非常に嬉しいボーナスになりました。

 

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ながら三国志

 

 

 

容姿を気にしていた曹真

呉質

 

こんな男としても憧れるカッコイイ曹真ですが、とても気にしている事がありました。実は曹真、若い頃から肥満していたいわゆる「動けるデブ」だったのです。

呉質に肥満をからかわれて激怒する曹真

 

ある宴会の席で呉質(ごしつ)という男が泥酔して曹真の肥満をからかうと、同席していた曹洪や王忠まで同調しデーブ!デーブ!と連呼しました。温厚な曹真ですが、内心気にしている事だけに許せず珍しく激怒したと言われています。

 

曹洪

 

しかし、曹真は屈辱を根に持たず、後に曹洪が曹丕に罪に問われ逮捕された時、曹洪のために弁護しています。曹真は心根までイケメンでした。

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

 

嫡子曹爽がバカすぎて一族滅亡

司馬懿と曹爽

 

曹真が死ぬと、その子孫は全て列侯に昇進させられ王室を守る藩屏の役割を期待されます。曹叡は病床で曹真の嫡子である曹爽と司馬懿に幼い曹芳の後見人を頼むほどでしたが、この曹爽が全くのボンクラで、曹芳が幼いのをよい事に政治を私物化して腐敗させ、最期は司馬懿にクーデターを起こされて身分を剥奪されます。

 

その時、曹爽は曹芳を握り、軍勢もあり各地に曹芳の命令で召集をかければ司馬懿の兵力に勝てる見込みはありましたが、司馬懿の甘言を信じて武器を捨てて降伏。自宅に軟禁され、頃合いを見て三族皆殺しとされました。

 

曹魏の3代に仕えた桓範(かんはん)

 

徹底抗戦を呼びかけた桓範(かんはん)は曹爽が「身分が無くても富豪で安楽に暮らせるならいいもんねー」と少し後の劉禅(りゅうぜん)みたいな事を言い出したのを聞いて心底呆れ果て「貴様らの父である曹真将軍は優れた人だったのに貴様たちは何なのだ?間違えて子牛か豚の子が生まれたのか!」と激しく罵ったとされます。

 

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曹真

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

曹真は苦労人であり、それ故苦しい立場にある人の気持が分る本当の名将でした。

 

三国志演義では、諸葛亮に翻弄された挙句バカにされる手紙を受け取り、憂憤のうちに死んだ曹真ですが、実際には孔明の打つ手を正確に読み攻勢を封じて逆に蜀に攻め込んで滅ぼそうとするなど、諸葛亮に取っては司馬懿以上の脅威だったと言えるでしょう。

 

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【北伐の真実に迫る】

北伐

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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