「大志と野望を持っている」と警戒され、「一臣に終わる身ではないと」言われつつも信頼され、「其方の顔を見ずに死ぬのが辛かった」とまで主に言われた人物、司馬仲達。
野心家である、という記録ばかりが目に付くので、寧ろ筆者などは「実はそこまでやる気なかったんじゃないか?」とか思ってしまう訳ですが、今回はそんな司馬懿のとりかえばやを考えてみたいと思います。
この記事の目次
仮病はどんなもんだろうか?
嘗て曹操は司馬懿の父親である、司馬防に引き立てられたという経緯があり、そのためか彼の息子である司馬朗、司馬懿を引き立てようとしました。
しかし司馬懿は「漢の敵である曹操に屈する訳にはいかない!」とこれを固辞した……とは言いますが、本当の所は良く分かっておりません。
当時は「お偉いさんからのお誘いを一回は断っちゃうのが超クール!(意訳)」みたいなトレンドもあったらしく、このため司馬懿は一度は断った、という説もあります。
とは言え後に崔エンと荀彧が司馬懿を推挙し、これに応じて司馬懿は出仕、そして曹丕に仕えるようになったと言われています。
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曹操の警戒、曹丕の信頼
曹操は司馬懿を警戒して都度曹丕に警告していたと言いますが、曹丕の方は司馬懿を気に入り、また司馬懿自身もその信頼に応えるために軽率な振る舞いをしないよう努め、それは後々まで続く信頼となります。
こうして司馬懿は太子中庶子に任命され、曹丕の傍に他の四友である、陳羣、呉質、朱シャクと共に良く仕えました。因みに弟の司馬孚は曹植に仕え、こちらも良く信頼されていたと言われています。
尚この頃、兄で司馬家きっての善性の人、司馬朗が病で亡くなります……この頃から、司馬懿は司馬家を背負っていく立場となったのでした。
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歴代に信任される
曹操の在命時は関羽の攻略に尽力し、曹丕が禅譲を受けて皇帝となった後にはその間際に曹叡を託されるまで信頼され、果てに曹叡の時代には諸葛亮や公孫淵らを見事に退け鎮圧するという大活躍。魏の二代目皇帝、曹叡の崩御時にもその後継を託されるほどに信任されていました。
しかしその後、曹爽らにクーデーターをしかけ、彼らを失脚させます。これ自体は曹爽らにかなりの問題があったので、魏のために憂いを取り除いたとも言えますが……曹爽らの失脚により魏の皇室の力は弱体化、そして司馬懿の死後、息子たちの代で晋の世は始まるのでした。
ではその司馬懿、とりかえばやするならばだーれだ?
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case1:司馬朗
まぁお兄ちゃんはやっておきたいよね!
さて司馬朗は司馬懿の兄で、お友達から「君の弟は君より優秀だね!」とか言われても寧ろ弟の評価の高さを喜んだ、と言われる人。そう言われても司馬朗自身の能力も高く、特に赴任先で善政を施す司馬朗は民衆にとても人気がありました。
曹操もその才能と人格者っぷりと高く評価、何気に曹丕も司馬朗の言葉を記録させたりと優秀な人物なのですが……司馬家には珍しく、短命です。司馬朗が長生きして司馬懿が短命……これはこれで見てみたくはないでしょうか。
何だかんだ兄弟揃って優秀だから司馬防さん大勝利ですね。
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case2:司馬孚
さてこちらは弟、司馬孚。曹植の行動を良く諫めて信頼されていた司馬孚は曹植派……と思いきや、曹操の亡くなった際に曹丕を良く諫め、兄(司馬朗の方)と負けず劣らずの人格者っぷりながら、曹叡からは「二人目の司馬懿だ!!」と言われるほど能力を高く買われていた人物です。
魏の忠臣であった彼は魏の皇室を貴び、皇帝曹髦が暗殺された際にはその遺体に取りすがって泣き、魏から晋への禅譲が行われても「私は死ぬまで魏の臣下です」と曹奐に言ったとされる司馬孚。
甥の司馬師や司馬昭も彼には手出しができなかったようですが、まあ恐ろしいことに甥っ子よりもこの叔父さん長生きするんだよなぁ……。
ここまで魏の忠臣を貫いた司馬孚、個人的な意見ですが「晋書じゃなくて三国志に伝立てて上げて……!」と思いますね。司馬懿ととりかえばやすることで、最期まで魏の世で生きさせて上げたいです。
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