義兄弟ではないものの、古参の武将の中では活躍の多い武将が、
長坂(ちょうはん)では阿斗と劉備の夫人を守って、
戦った勇者であり、孔明の北伐まで参加した長寿な武将でもあります。
しかし、趙雲の子孫と言うと、それが誰だか
分からない方も多いのではないでしょうか?
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この記事の目次
趙雲は女嫌いだった?
趙雲と言えば、桂陽太守の趙範(ちょうはん)を降した時に、
趙範から兄の未亡人を妻にと勧められ、これを断った事実で知られています。
この未亡人は、大変な美人だったので、劉備は
「子龍さえ良ければ、わしが仲人になるぞ?」
とからかい半分に言いますが、趙雲は堅く固辞しています。
「私には仕事が御座いますからお断り致します。
また、いかに美女とはいえ、天下に女は多くおりますので」
これにより劉備は、「趙雲は情欲に流される男ではない」と感じて
留営司馬に任命して、劉備の家族の事を任せたそうです。
潔癖な性格から、女性化される事も・・
このように、スケベの「ス」の字もない趙雲は身持ちが
堅い朴念仁(ぼくねんじん)とされ、それが転じて、
・女に関心がない=そんなバカな男だぞ!=実は女性だからでは?
=長坂で阿斗を背ではなく胸に抱いていたのは母性か!=やっぱり趙雲女!
という変な流れが出来てしまいました。
こうして、池上遼一の漫画では、趙雲はとうとう女性化されてしまい、
なんと、呂布(りょふ)に抱かれて、身ごもり、生まれた子は関平として、
関羽の養子になるというミラクルな展開になっています。
詳しくは池上先生の大作 覇――LORD――でご確認下さい。
さらに、この漫画では、董卓は大凧に乗って洛陽に入城します。
まさに桁外れです。
どっこい、実は趙雲には、子供がいるのです。
このように考えると、もしかして・・
とも思いますが、実際には、趙雲にはちゃんと子供がいるのです。
その名は、趙広(ちょうこう)と趙統(ちょうとう)と言います。
二人がいつ頃生まれたのか、分かりませんが、
趙雲が229年に没した事を、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)、
劉禅(りゅうぜん)に告げると引き立てられ、虎賁(こほん)中郎将に
任命される事になります。
虎賁中郎将とは、皇帝直属の近衛兵の事です。
主に、功臣の子が任命される事が多いので、そこからの人事でしょう。
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その後、趙統と趙広はどうなるのか?
趙雲の跡を継いだ、趙統はその後も出世をし、
督行領(とくこうりょう)軍という地位につきますが、
それが、どのような地位かは不明です。
二人は、銀屏山に葬られた父、趙雲の墓を守っていたようです。
趙統の記述は、そこで途絶えますが、趙広の話はさらに続きます。
趙広は、西暦262年姜維(きょうい)に従い、魏の鄧艾(とうがい)と
戦って沓中(とうちゅう)に向かいます。
そこで、姜維が鄧乂に敗北して退却する途中に戦死したようです。
もし、趙広が西暦200年頃の生まれだとすれば、もう62歳、
死に場所を戦場に求めた最期だったのかもしれません。
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趙雲には娘もいた?
正史、三国志、そして三国志演義にも登場しませんが、
清の時代の江陵県誌という書物によると、趙雲には趙氏(ちょうし)という、
娘が存在したそうです。
この趙氏は、成長してから、関羽の息子である関平(かんぺい)に嫁ぎ、
そして息子である関樾(かんえつ)を産みます。
あれ? 趙雲は呂布と関係して妊娠して関平を産んだのに、
趙雲の娘が関平に嫁いで関樾を産んだのか?
あれ?何がどうなっているのやら・・・・
なーんて、混乱しているあなた、安心して下さい。
覇――LOAD――の読み過ぎですよ!
趙氏は、戦火を逃れて、江陵に代々住んだ?
この趙氏の息子、関樾が8歳になった時、
夫である関平は、関羽と共に樊城で曹仁を包囲していました。
しかし、魏と極秘に結んでいた呉軍に陥れられて破れます。
二人は逃亡しますが呂蒙(りょもう)に捕えられ斬られてしまいました。
趙氏は関樾を連れて、戦火を逃れ江陵に移り以後、
関樾の子孫は、そこで、関羽の血を守り続けたとされています。
実際に、清の時代に、この江陵で関羽の五十二世である
関朝泰(かんちょうたい)という人物が関羽の子孫と認められ、
五経博士に任命され、当地で関帝廟を祀る事を命じられたそうです。
ところが、この関朝泰と、関平、関樾との
関係については記述がありません。
真相は、どうなっているのでしょうか・・
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三国志ライターkawausoの独り言
正史三国志では、西暦263年の蜀の滅亡後、
関羽の子孫は、鐘会(しょうかい)にくっついて入城した
龐徳(ほうとく)の子である龐会(ほうかい)により父の恨みとして皆殺しにされたとあります。
一体、江陵に逃れた関樾と趙夫人とは実在した人なのでしょうか?
それとも、関羽や趙雲の子孫が生き残っていればいいという
三国志演義ファンの願望が産んだフィクションなんでしょうか?
詳しい事は分かりません、、
本日も三国志の話題を御馳走様でした。
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