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三国志の真田丸 陳倉の戦い
さて、三国志の世界にも、真田丸に劣らない名城がありました。
その名を陳倉(ちんそう)城といい、魏の蜀に対する防衛拠点です。
西暦228年、諸葛亮孔明(しょかつりょう・こうめい)は、
北伐を開始し、南安、天水、安定の三郡を魏から寝返らせます。
しかし、街亭の戦いで馬稷(ばしょく)が敗戦、魏の挟撃を恐れた孔明は、
北伐を中断して漢中まで引き返しました。
ですが、魏において対蜀防衛を担っていた大将軍曹真(そうしん)は油断せず、
孔明が再び北伐に出てその途中で陳倉道を通過すると予測、
郝昭(かくしょう)に命じて陳倉城を整備増強させていました。
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孔明、予測通り陳倉城を包囲する
郝昭は字を伯道(はくどう)といい、洴州太原郡の人です。
若くして、曹操(そうそう)に仕え、勇猛果敢な武将として各地を転戦して
手柄を立て曹丕(そうひ)の時代には河西一帯の統治を任されます。
しかし、そんな彼に与えられた兵力は1000名程度、
魏は曹休(そうきゅう)が呉の陸遜(りくそん)に大敗するなどして、
兵力が不足していて、郝昭に兵力を裂く事が出来なかったのです。
孔明は、陳倉道を通過すると、数万の軍勢で陳倉を包囲します。
陳倉城が難攻不落である事を承知していた孔明は力攻めを避け
郝昭と同郷の人間を派遣して降伏を促すなどしますが郝昭は拒否しました。
衝車、雲梯、櫓、トンネル、あらゆる方法を試す孔明
交渉が決裂すると孔明は、雲梯(うんてい)車と呼ばれる
長いハシゴを持つ攻城兵器で、陳倉城の城壁に取りつきます。
これに対して、郝昭は全力で火矢を射かけて、雲梯車を焼き払います。
次に孔明は、衝車(しょうしゃ)を用意して城門を討ち崩そうとしますが、
郝昭は、今度は城内のありったけの石をぶつけて、衝車を破懐しました。
さらに孔明は、高い櫓を組んで、城内に矢を射かけますが、これも失敗
最後には、トンネルを掘って地下から侵入しようとしますが、
それを察知した郝昭は、城内からもトンネルを掘り、蜀軍のトンネルに
油を流して火を掛けトンネルを使用不能にしてしまいます。
兵糧に不安がある蜀軍は20日余りで退却・・
これには、孔明も参りました、思っている以上に陳倉城に時間を取られ、
兵糧に不安があった孔明は無理攻めをせず、退却します。
こうして郝昭は、自軍に10倍する蜀軍を追い払ったのです。
蜀は、この陳倉城の敗戦が余程堪えたのか、郝昭存命中は二度と、
陳倉城を攻撃しようとはしませんでした。
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三国志ライター、kawausoの独り言
孫子は、城攻めは下策と言っているように確かに城を守る側は
城を攻める側よりは優位に立つケースが多いです。
それでも、自軍に数十倍する蜀軍を迎え撃つ郝昭や、圧倒的に優位な
徳川軍を迎撃した真田幸村の重圧は大変なものだったでしょう。
真田丸や陳倉城が名城であるとはいえ、そこは幸村や郝昭の統率力あっての
大勝利だったと言えるでしょうね。
本日も真田丸&三国志の話題をご馳走様♪
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この記事を書いた人:kawauso
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どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
もちろん、食べるのはサーモンです。