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【男の嫉妬は怖すぎる】スーパーエリート袁術 VS スター劉繇(りゅうよう)

2016年3月16日


太史慈 逃走

 

呉郡にあって猛将である太史慈(たいしじ)を上手くつかえず、

孫策(そんさく)に大敗を喫して逃げ出したとされる劉繇(りゅうよう)

確かにお粗末です。

三国志のゲームでも使えない武将のひとりとして有名です。

しかし、皆さんが思っているほど力量のないものに異民族ひしめく揚州刺史の詔がくだされるでしょうか。

恐らくは息のかかったもので周囲を固め、勢力を拡大しようとしたのが、

徐州の牧である陶謙(とうけん)の推薦の狙いだろうと思われています。

詳しくこの年を記してはいませんが、初平三年(192年)ごろではないでしょうか。

と、すると劉繇36歳の頃ということになります。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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王族・劉家のスター劉繇

袁術と劉繇

 

劉繇の祖先は、「斉の孝」です。誰?って感じですよね。

高祖(劉邦)の八人の男子の中で長子である劉肥は妾腹の子だったために家督を継げずに、東方の斉の国王となりました。

そこにまた九人の男子がおり、その四子が劉将閭(しょうりょ)です。

しかし劉肥の長子である劉襄に子が無くお家は断絶。

皇帝は領地を劉肥の子らに分割しました。

劉将閭はそこで斉の孝王となります。

漢に謀反を起こした王族に加わらず籠城して守りぬき、その後に疑いをかけられて服毒死したそうです。

後に罪がなかったことがわかり、国が再興します。

漢帝国にために戦い、無実の罪で死んだこの斉の孝王のことは、ほとんどのひとがよく知っています。

つまりスーパースターです。

皆があの「斉の孝王」の裔遜か!と嬉々として迎い入れるのです。

そんなスーパースターの威光もあって、叔父の劉寵は三公である太尉に、

その弟で劉繇の父である劉輿は山陽太守に、劉繇の兄である劉岱は兗州刺史に任じられています。

やっぱり劉繇はエリート一家なんですね。

 

揚州の実態

袁術

 

しかし、劉繇が働くべき揚州の州府がある北の寿春には、こともあろうにあのスーパーエリート袁術がいました。

当時の袁術は左将軍です。

しかも名門中の名門。勝てません。

そこそこエリートのスター劉繇は、唇を噛み締め、泣く泣く長江を渡り、呉郡に新しい州府を建てます。

それを補佐したのが呉景と孫賁といわれています。

どちらも孫策の血族者です。

呉郡は孫策の誕生の地でもあります。

ちなみに192年4月に兄の劉岱が戦死していますから、

劉繇は一族を連れて、呉郡の曲阿県に向かったのでしょう。

 

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フラフラする呉景と孫賁

 

 

呉郡は孫策の父、孫堅の故郷ですから、その棺と共に孫賁は一族を守っていました。

呉景は孫堅の妻の弟です。

孫賁、呉景ともに朝廷の印綬をもっているこのスター劉繇を素直に歓迎しました。

呉郡の豪族や名士たちは「あの斉の孝王」の末裔がきたと大喜びです。

周辺からもその声を聞きつけてやってくるものがいました。

孫卲(のちの呉国の宰相)や太史慈(武勇抜群・孫策と引き分けるほど)や

許劭(人相見の第一人者)などがこぞって集まってきたのです。

そうですスター劉繇には「人望」「名声」があったのです。

それは隣国の徐州牧、陶謙以上だったようです。

許劭は陶謙を見限り、劉繇のもとを訪れています。

歓迎ムードの中で微妙なのは二人。

袁術の息のかかった孫賁と呉景でした。

 

 

袁術の嫉妬

朝まで三国志 袁術

 

同じ揚州の地で、瞬く間に力をつけてきたスター劉繇に嫉妬を感じたスーパーエリート袁術は、潰しにかかります。

目障りだったのでしょう。

まずは呉景、孫賁を引き抜き、勝手に丹陽太守と豫州刺史にしていまいます。

左将軍にはそんな権限がありませんので、これはスーパーエリートの権限を活用してのことでしょう。

人が集まるスター劉繇に二人は敵わず撤退します。

朝廷もさらに劉繇の力を認め、揚州の牧に任じられることになります。

 

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孫策の台頭

袁術と孫策

 

ここで待ってました!といわんばかりに孫策が劉繇討伐に名乗りを上げて、

異常な強さで呉郡を圧倒するのです。

この辺りはまるで源義経並みの神がかり的な活躍ぶりです。

その勢いに押されて劉繇は撤退。会稽ではなく豫章に落ち延び病死します。

その後は長子の劉基が家を継ぎ、孫権に仕えると、光祿勲に任ぜられるところまで出世しています。

スターの名は呉国でも尊重されたのです。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

孫策

 

袁術孫策)がいなければ江南に大勢力を広げたのは劉繇だったかもしれません。

ただし孫策と劉繇の大きな違いは、実力者を起用するか名家を起用するかでしょう。

(袁術はけっこう誰でも起用しちゃいますが・・・)

太史慈の起用のされ方がそれを物語っています。

劉繇は、大将の器のある太史慈を、名家ではないことから斥候役程度にしか起用していません。

人望と名声があったスターだけに、なんとももったいない話ですね。

 

 

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ろひもと理穂

ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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