曹操(そうそう)の誇る天才策略家、無頼の不良成年と言えば郭嘉(かくか)です。その活躍は、まるで魔法のようで、郭嘉の早死により魏は天下を統一できなかったとされる程に持ちあげられている郭嘉ですが、彼の伝には盛られた部分があります。
今回は、郭嘉ファン、大ショックの郭嘉の盛りについて解説します。
この記事の目次
正史三国志は、必ずしも真実を書いているとは言えない
三国志には、陳寿(ちんじゅ)が書いた正史三国志と遥か後に、羅貫中(らかんちゅう)が書いた三国志演義という二つがあるという認識は、三国志に詳しい方なら説明不用の話でしょう。
そして、演義はフィクション満載、正史は史実に近いという認識だと思います。しかし、その認識は全体では正しいとしても、個別では間違う事があります。
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名編集長 裴松之により、陳寿の三国志には沢山の補則が付けられた
陳寿が三国志を著してから100年以上後、裴松之(はいしょうし)は宋の文帝の命令で、簡潔すぎる三国志に陳寿が使用しなかったネタや、三国志にまつわるネタを、新たに盛り込んで内容を濃くしていきました。
これを裴註(はいちゅう)といい、正史三国志では、どこに裴松之の筆が入っているか分るようになってはいるのですが、それは陳寿の筆と裴松之の筆が三国志で混在するという状況を生み出したのです。
そして、記述の少ない人物を裴松之は補則で補ったので、結果として活躍が盛られる人物が登場します、その一人が郭嘉です。
郭嘉伝についた裴註は子孫の伝も含め、十項目ありますが、その内容は、記述に大袈裟なものが目立つ、魏の傅玄(ふげん)の書いた「傅子」由来の記述が7つ、魏略が2、説話系である世語が1つ入ります。この中の圧倒的多数を占める「傅子」由来がスーパー郭嘉を造り出す元ネタなのですが・・・それは、おいおい解説するとして、話を進めます。
陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 1
では、裴註が加わらない素の郭嘉を確認する為に、裴松之の手が入っていない陳寿の郭嘉伝を簡単に説明します。
郭嘉奉孝(ほうこう)は、頴川(えいせん)郡陽翟(ようてき)の人で、初めは北方の袁紹(えんしょう)に仕えようとして、会見するも、袁紹の臣、郭図(かくと)、辛評(しんぴょう)に言うには、
「そも、智者というのは自分で仕えるべき主を見定めるものです、そうであればこそ、百の献策を百採用され、功名が立てられるというものでしょう。しかし、私の見た所、袁公は、周公を真似て賢才を招いていても、人を使うテクニックがなく、色々計画しても実効性は乏しく、謀略を好んでも決断がありません。このような人では、天下を制覇するのは難しいと存じます」
かくして郭嘉は去った、その頃、曹操の配下の戯志才(ぎしさい)が死に、曹操は荀彧(じゅんいく)に「誰か適当な後任はいないか?」と聞いた。
荀彧は郭嘉を推薦し、曹操と郭嘉は天下の事を話し合った。
曹操は、郭嘉の才能を気に入り、「私の覇業を成してくれるのは郭奉孝だ!」と言い、郭嘉もまた、「私の探し求めた主は、この人だ」と言った。
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陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 2
曹操は、呂布(りょふ)を討伐し、三戦してこれを破ると呂布は濮陽に籠城します。諸将は兵の疲労を考えて引き上げるように進言しますが、郭嘉は、曹操に説いて激しく攻めさせ、ついにこれを破りました。
この頃、孫策(そんさく)が江南で勢力を伸ばしていましたが曹操と袁紹が、官渡で戦うと聞くと、北上して許を狙わんという噂が届きました。人々は皆、恐れますが、郭嘉はこれを考えるに、
「孫策は英雄かも知れませんが、彼は各地で英雄豪傑を殺し過ぎました。しかも、彼には大将の自覚がなく、単独行動を好み、危険を察知できません。これでは百万の兵がいても無意味ですから、一人腕の立つ刺客を雇えば、殺すのは難しくありませんし、私の見た所、そうして死ぬでしょう」
しばらくして、孫策は許貢(きょこう)の残党の手にかかり暗殺されました。
官渡の戦いで、曹操は袁紹を撃破、さらにその後継者である、袁譚(えんたん)、袁尚(えんしょう)を黎陽(れいよう)に討つのに従い、連戦してしばしば勝利を収めます。諸将は勝ちに乗じてこれを攻めるべしと進言したが郭嘉は言います。
「今回の混乱は、袁紹が後継者を明確にしない事で起きました。郭図や逢紀(ほうき)がそれぞれに謀臣としてついている以上、放置しておけば、また分離して同士討ちを開始するでしょう。荊州の劉表(りゅうひょう)を討つフリをして兵を出し北には興味がないフリをして、両者を安心させるのです」
曹操は、その策を妙案として、早速、劉表を討つべく出兵した。それを見た、袁譚と袁尚は果たして冀州を奪いあう同士討ちを始めた。
両者がお互いを潰し合ったので、曹操は南皮や鄴(ぎょう)を平定するのに手間が省け、郭嘉は手柄で洧陽(ゆうよう)亭侯に封じられました。
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陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 3
袁尚と袁熈は、烏桓(うかん)族を頼って北へと逃げ延びます。曹操は、烏桓族討伐の遠征軍を起こそうとしますが、群臣は「南の劉表が劉備を使って許を突くかも知れない」と反対します。
しかし、郭嘉は曹操の遠征を支持して言うには、
「殿の権勢は天下を震わせていても、烏丸は距離が遠いのを恃みとし、ろくに防備もしていないでしょうから、今、攻めれば勝てます。それに、袁氏は滅んだわけではなく、二児は生きていて、北方四州は、最近平定したばかりで殿の威厳に従っているだけで、内心は袁家の統治を懐かしんでいるのは間違いありません。ここで、北方を放置して、南の劉表を攻めれば、袁尚、袁熈が決起し烏桓族の蛮勇を恃んで攻めよせる事になり冀州と青州は我々の手を離れる事になると思います。
そもそも、荊州の劉表は議論屋で口先だけの男、劉備を使って、手柄を立てさせると、その発言力が増加するのでは?と内心では恐れています。劉表が劉備を信頼していないなら、劉備も命がけで攻めてくる事はなく荊州の動向を気にするのは、甚だナンセンスと言えます本拠地を空にして攻めても、何ほどの事もありません」
曹操は郭嘉の意見を容れて、烏丸討伐の軍を起こします。郭嘉が言うには、「兵は拙速を貴ぶので、補給隊を置き去りにして軽騎兵で急行し、烏桓族が備えを固める前に虚を突いて戦うべし」
曹操は言う通りに軽装の軽騎兵だけで烏桓の本拠地に突入すると、準備をしていなかった烏桓族は、あっという間に敗れ去ります。袁尚、袁熈は、さらに遼東に逃げます。
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