どこの世界でも二世って辛いものです。なまじ初代が有名なので、いやでも比較され、初代に及ばなければ厳しい批判にさらされ「親父は凄かったのに、息子は・・」と余計なお世話視線を浴びせられます。そんな残念二世の典型が、名将、張遼(ちょうりょう)と楽進(がくしん)の息子である張虎(ちょうこ)と楽綝(がくちん)です。
三国志演義では、張苞、関興の引き立て役
張虎と楽綝は、三国志演義でも需要のある二世武将です。しかし、その需要とは、有能で大活躍するという意味ではありません。この両者の父である張遼と楽進が名将である為に、同じく、張飛(ちょうひ)、関羽(かんう)の息子である、張苞(ちょうほう)と関興(かんこう)の華々しい活躍の引き立て役として、親父に似ない、ダメダメ武将として登場するのです。
どんな風にダメなのかというと北伐で司馬懿(しばい)と孔明(こうめい)が陣形勝負を挑んだ時、孔明は八卦の陣を敷きますが、司馬懿は、これなら破れると、張虎と楽綝を呼び出して陣に突入させます。ところが、孔明は八卦の陣に工夫を施していて、二人は陣を出る事が出来なくなり捕えられ、全裸にされた挙げ句、司馬懿に送り返されるのです。
ボスの言う通りに陣に突撃したら、司馬懿がポカして自分達が裸にされてしまうという、引き立て役に相応しいお間抜けキャラっぷりです。
もちろん、ずっとやられキャラではなく、三国志の後半では、同じく、張虎・楽綝コンビで蜀将の呉班(ごはん)を弓隊で仕留めています。
さらに三国志演義の終盤では、司馬懿の公孫淵(こうそんえん)討伐に参加し、夏侯覇(かこうは) 、夏侯威(かこうい)、陳羣(ちんぐん)、胡遵(こじゅん)などの歴戦の猛者の一角として参加やけっぱちで襄平から逃げようとする公孫淵の部隊を張虎と共に鉄壁の包囲で撃破するという役割です。
史実での張虎はどうだったのか?
史実における張虎は、張遼が222年に死去すると、その後を継いで晋陽侯になり偏将軍まで昇進します。それなりに武勇があったのでしょうが、具体的にどんな戦いに出たのかは不明です。
西暦225年に曹丕(そうひ)が、合肥の戦いにおける張遼、李典(りてん)の活躍を賞賛して一子に張遼、李典の食邑から百戸を分けて関内侯にしたとあります。しかし、関内侯とは、列侯の下なので、すでに晋陽侯を継いでいる張虎が相続したとは考えにくいです。
この一子とは、張虎の子の張統(ちょうとう)ではないかと思われます。さて、張虎ですが、これという記録はなく死去し、その後を張統が継いでいますが、張統には、さらに記述がなく、ここで張遼の一族は途絶えています。なんと、三国志演義の方が、やられとはいえ、まだ目立っているというなんともアレな張虎なのでした。
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史実での楽綝はどうだったのか?
では、一方の楽進の息子である楽綝(がくちん)はどうだったのでしょうか?さぞかし、張虎同様に、役立たずかと思いきや、意外にもこちらは、楽進を彷彿とさせる勇猛果敢で立派な武将だったようです。
官は揚州刺史まで昇進しましたが、この地に諸葛誕(しょかつたん)がいた事が不幸の元でした。王凌(おうりょう)、夏侯玄(かこうげん)、毌丘倹(かんきゅうけん)と次々と司馬氏の邪魔になりそうな武将が殺される中で諸葛誕は疑心暗鬼になり西暦255年、揚州刺史の楽綝を司馬氏の手先と見做して攻め殺してしまうのです。
諸葛誕は、楽綝に謀反の疑いありと上奏して罪を逃れようとしますが、司馬昭は、これを反逆と捉え切羽詰まった諸葛誕は反乱を起こします。殺された楽綝には、九卿の衛尉と慰侯が追贈され、子供の楽肇(がくけい)が後を継ぎます。そして案の定、そこから先は分りません。三国志演義では楽綝は司馬昭の手下という扱いで、その為に諸葛誕に殺されます。死ぬという事では、史実も演義も扱いは変わりません。
三国志ライターkawausoの独り言
さて、ダメな方の二世武将、張虎と楽綝を紹介しました。もっとも、本当は、史実では、張苞や関興も早死にしていて、名将とは言い難いんですけどね。
もちろん、中には、父文欽(ぶんきん)に勝る名将、文鴦(ぶんおう)や、陸遜(りくそん)に劣らない陸抗(りくこう)など、名将もいるにはいるのですが、やはり時代を経ると、小粒になるのが全体の流れのようです。
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