曹叡の死後、幼帝曹芳の補佐を遺言された曹爽と司馬懿ですが、曹爽は父曹真に似ても似つかぬ凡人であり、腹心も何晏、鄧颺、李勝、丁謐、畢軌のような軽佻浮薄をもっぱらとする、ろくでもない五人組でした。曹叡は実の無い五人組の空理空論を嫌い登用しませんでしたが、坊ちゃん育ちの曹爽は、この五人のおべっかに騙され側近にしていたのです。
五人組は目の上の瘤である司馬懿を追い落とすべく策を練りはじめました。
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五人組何晏、五十を過ぎて権力を握る
五人組の筆頭は何晏と言い、何進大将軍の孫にあたっていました。
しかし何進は、十常侍との戦いに敗れ白昼堂々殺害され、その報復として何進の部下だった袁紹や袁術が後宮に押し入り、三千人もの宦官を皆殺しにしたのです。共倒れになった何進の勢力と宦官勢力の隙を突いて、軍閥の董卓が洛陽に入城し、後漢は事実上崩壊します。
当時、何晏は幼かったので母の尹氏はそのまま宮中に残り董卓に従い、洛陽から長安に移動、その後李傕・郭汜の暴政を潜り抜け曹操が献帝を許に迎えた時。美しかった尹氏は曹操の側室となります。
曹操は度量の広い男で、尹氏の連れ子の何晏の利発さを愛し、実子の曹丕や曹植と同様に扱いました。何晏も曹操に懐き曹操の実子同様に振るまう程でした。曹操は何晏を気に入り娘の金郷公主を与えるほどに優遇しましたが、曹操の死後は曹丕に疎まれて高い地位に就けず、曹叡の時代にも実のない学問をしているとして閑職に追いやられました。
政治での出世を諦めた何晏は著述に励み「論語集解」「老子道徳論」等を表し、哲学的な談論である清談の気風を開きます。ところが曹叡が死去し、曹爽が幼帝の後見人になると、曹爽と親しかった何晏は散騎常侍・尚書に任命され、五十歳を過ぎてから権力を握ったのです。
何晏は曹爽を唆す
何晏が尚書になった頃に、同じ尚書仲間に鄧颺や丁謐もいて、曹爽の取り巻きでした。この二人も、何晏と同じく尊大軽薄であり、すぐに仲良くなります。しかし、軽薄な五人組に対し、司馬懿は苦言を呈したようです。
司馬懿は伝統的な儒者の出身であり、何晏がやるような胡散臭い議論の為の議論が嫌いであったようで、司馬懿がいる限り何晏は好き放題が出来ません。そこで司馬懿を除こうと思った何晏は曹爽に司馬懿の悪口を吹き込みます。
何晏「恐れながら、殿は司馬公に権限を委ね過ぎています。これからは権限をご自身でお持ちにならないと禍を招きますぞ」
曹爽「何を言う!司馬公とは先帝に共に帝を盛り立ててくれと遺言されて力を尽くすと誓った仲、排除など思いもよらぬ」
何晏「殿、御父上と司馬公の因縁をお忘れでしょうか?」
曹爽「なんだと・・」
何晏「御父上が、蜀の侵略を司馬公と防いでいた頃、しばしば侮りを受け、最後には病死した事をお忘れではありますまい?恐れながら司馬公は、共に大業を為せる相手とは思いませぬ」
曹爽「ううむ、、、そうであった、、父が仲達に侮りを受け続け無残な死を迎えた事を忘れてはおらぬ、、よし、分かった、ではどうやってヤツめを排除すればいい?」
何晏「仲達めは、戦の達人、兵権を与えておけば、いつ実力行使をしてくるかわかりません。そこで殿は陛下に上奏し、仲達めを名誉職の太傅に祀り上げて兵権を剥ぎ取り、隠居に追い込むのが肝要かと思います」
曹爽の上奏で司馬懿は閑職に回される
曹爽は何晏の入れ知恵をお膳立てし、幼帝曹芳に司馬懿を太傅に昇進させるように上奏。まだ幼い曹芳は自力では決済できず、それは裏方の何晏たちが処理しました。司馬懿は謀られたと思いましたが、ここで叛くのは得策ではないと自重し、勅命を受け入れて兵権を返上し、司馬師、司馬昭とも蜀を辞して領地に引きこもりました。
曹爽は司馬懿の兵権を受け、弟の曹義を中領軍、曹訓を武衛将軍、曹彦を散騎常侍とし、それぞれに三千名の近衛兵を与えて、宮中を自由に出入りさせ、何晏、鄧颺、丁謐を尚書とし、畢軌を司隷校尉とし、李勝を河南の尹とし五人が曹爽を補佐して、魏の政治を取り仕切るようになります。
瞬く間に腐敗する曹爽政権
為すすべなく追い落とされたかに見えた司馬懿ですが、彼にも企みがありました。強引に曹爽から権力を奪うのも出来なくはないのですが、それでは多くの敵を造ります。そこで、病気を理由に隠居し、曹爽や何晏達に好き放題贅沢をさせ、人心が離れるのを待つ事にしたのです。
司馬懿(フン、小心なバカどもめ、今は我が世の春を謳歌しておるがいい)
さて、司馬懿の読みは的中しました。軍事も行政も権威も把握した曹爽一派は警戒心を完全に失い、贅沢の限りを尽くすようになりました。魏の領内からは、曹爽や何晏の機嫌を取って出世しようと賄賂を贈る人間が列を為し、曹爽はすでに己が皇帝になったかのように調度品の全てを皇帝と同じように造らせ、後宮の美姫を選りすぐって自分の宮殿に入れ、外国から魏への貢物も良いモノは自分の懐に入れ、悪いモノだけを国庫に入れるという私物化を始めたのです。
おまけに、曹爽は自分の命令を皇帝の詔と偽り、洛陽中の良家の子女から美女を集めては、自分の宮殿に入れてしまうなど公私の別を忘れた独裁状態に突入します。上の曹爽がそうなら下の何晏等五人組は余計にひどく、何晏は吏部尚書という人事を司るポストを得て、自分のお気に入りだけを出世させて政治を壟断させます。
魏の政治には退廃の空気が流れ、何晏は五石散という麻薬をキメながら仲間と酒を飲み空理空論を論じる無益な議論を繰り返します。これでは人心が離れるのは当たり前でした。我が世の春を謳歌する曹爽と何晏等五人組には、破滅の時が迫っていたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
当初、司馬懿と曹爽の両頭体制だった魏の政治は何晏等のたくらみにより、司馬懿が名誉職につけられ兵権を取り上げられ敬して遠ざけられる形になりました。この体制は10年続きますが、魏の歴史でも珍しい退廃と腐敗にまみれた時代だったようです。
しかし、正史三国志では三国志演義と違い、司馬懿は太傅になったものの兵権は握っており、洛陽から離れただけでした。司馬師も役職を辞めておらず、それどころか中護軍という近衛兵を率いる役職を維持しています。何晏も司馬師を「天下の大事を果たせる逸材」と褒め信頼を寄せていたようです。
つまり、司馬懿と司馬師・司馬昭が役職を引いて、曹爽一派が油断するのを待ったというのは、三国志演義の創作でありその後ボケたフリをして、曹爽一派を欺く司馬懿の逸話に繋げる伏線だったのです。
参考文献:完訳三国志演義 (8)
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