「三国志」を飾る多くの軍師たちの中でも、諸葛亮孔明に並んで評価が高い人物、それが曹操を支え続けた軍師・荀彧でした。
今回は、そんな曹操の右腕となり、曹操の覇道を支えた荀彧という人物について、その人柄や人となりなどを見ていきたいと思います。なお、今回の記事は主に「正史三国志」をもとにしています。
荀彧の生い立ち
荀彧は163年に豫州潁川郡で生まれました。荀彧の故郷である潁川郡は後漢末において、人材の宝庫とも言うべき地域であり、綺羅星のごとき数多くの有能な人材を世に輩出しています。
例えば、荀彧以外には荀攸・郭嘉・郭図・鍾繇など、一度はその名を聞いたことのあるである有名人たちが挙げられます。潁川郡の人士たちの中でも、特に荀氏は偉大な思想家である荀子の子孫として一目置かれる存在であり、荀彧の祖父である荀淑は宮廷の権力闘争に嫌気がさし、出世の道を自ら捨てた清廉の士でした。
荀淑は人々からの信望を集めており、その下には中央政界における外戚と宦官の醜い抗争から離れ、清廉の道を追求する「清流派」の人々が集っていました。特に、後に清流派の中心人物となった李膺などは、荀淑を師と慕うほどでした。
そのような家柄に生れた荀彧も自然、周囲の薫陶を受け、清流派の名士として成長していくことになります。しかし、2度にわたる党錮の禁(166年・169年)を通じて清流派は宦官によって弾圧され、生き残った清流派人士たちも宦官の圧倒的な勢力に服属せざるを得なくなります。
この時、荀彧は宦官であった唐衡の養女と結婚することになりました。清流派の元締め的存在であった潁川の荀氏ですら、宦官の勢威には逆らえなかったということでしょうか。
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荀彧と曹操との出会い
清流派が忌み嫌う仇敵であった宦官との姻戚関係を築いたことで、荀彧の「清流派人士」としての立場は大きく傷つくことになります。その一方、荀彧は開き直って宮廷での出世を目指すこともなく、義父の伝手で得た官位も捨てて故郷に帰ってしまいます。
その後、袁紹による宦官勢力の粛清、董卓の台頭、そして群雄の挙兵と董卓の暗殺を経て情勢が移り変わる中で、故郷で逼塞していた荀彧は行動を開始します。
荀彧ははじめ、潁川郡出身者を多く召し抱えていた冀州の韓馥に仕官しようとしますが、韓馥が袁紹に降伏すると袁紹の家臣となります。このあたりから、荀彧は「天下統一」という明確な志を持って行動するようになったと考えられます。というのも、辛評や郭図ら潁川郡出身者の多くが袁紹に仕える一方で、同郷の者たちとは袂を分かち、まだ弱小勢力に過ぎなかった曹操のもとに身を投じているからです。
荀彧は器の小さい袁紹に見切りをつけ、勢力は小さいながらも非凡な才を持つ曹操を補佐して天下統一を目指そうとします。
一方、曹操も「王佐の才」と謳われた荀彧の来訪を喜び、かつての漢の高祖・劉邦を支えた伝説的な軍師・張良にたとえて「我が子房」と呼ぶほどでした。この二人はこの後、艱難辛苦を共にし、天下統一という目標に向けて進んでいくことになります。
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荀彧の才能
曹操に仕えることとなった荀彧は何度も優れた献策を行い、曹操の勝利に貢献しています。しかし何よりも、荀彧が非凡だったのは人物を見抜く眼力でした。
潁川郡出身の荀彧は清流派人士と広く交流を持っており、曹操に対して数多くの有能な人物を推薦しています。荀彧が推挙した人物は有名な者だけで、荀攸・鍾よう・戯志才・郭嘉・陳羣・司馬懿・王朗が含まれ、彼らはみな曹操の覇業を支えるとともに、後の魏王朝の柱石となった者たちでした。
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荀彧の人柄
清流派人士にしては意外なことに、荀彧にはしたたかなところがありました。例えば、同郷の者たちが後漢きっての名門出身である袁紹に仕える一方、自らは清流派人士が忌み嫌うはずの宦官の家系である曹操に仕えています。
これは、荀彧自身の義父が宦官であったという要因もあるでしょうが、やはり自らの「王佐の才」を発揮できる主こそが曹操であると、持ち前の観察眼で見抜いていたのでしょう。
また、長安から逃れた献帝を保護するように曹操に進言したのも荀彧でした。この行動によって曹操は、献帝の権威を後ろ盾として、群雄に対して外交的に優位な立場に立つことができましたが、考えようによればこれは曹操の天下統一のために皇帝を利用するということにもとれます。目的のためには至尊の存在である皇帝さえ利用するという、こうしたしたたかさは荀彧の特徴でした。
その一方で、荀彧は清廉潔白を至上とし、儒学に基づいて皇室を尊ぶ清流派人士としてのアイデンティティを捨てることはできませんでした。
例えば、呂布や袁術・袁紹を破った曹操が強勢となると荀彧も出世し、後漢の朝廷から多くの俸禄を与えられましたが、荀彧は一切の俸禄を親族や民衆に分け与えてしまい、私財を蓄えることはありませんでした。こうした生き方は、荀彧の清廉潔白さを象徴するエピソードです。
こうした荀彧の矛盾した複雑な人格は、最終的に彼の身を滅ぼすことになりました。荀彧は自らの志を曹操に託し、いわば曹操と二人三脚のようにして天下の大半を手中に収めることに成功します。
しかし、並ぶ者のいないほどの勢威を手にした曹操が魏公への就任を志向するようになると、あくまで漢朝の臣下としての道を歩もうとする荀彧と、漢朝の臣下としての立場を超越しようとする曹操は道を違えることとなり、曹操への忠誠心と漢朝への忠誠心との間で板挟みなった荀彧は、憂いのうちに病を得て死んでしまいました。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。こうしてみると、荀彧という人物は、とても複雑な人格を抱えた軍師だったのですね。乱世を終わらせるために、時には後漢の皇帝を利用してまで曹操とともに天下統一を目指す一方で、
最後まで「清流派」としての自分と後漢王朝への忠誠を捨てられない荀彧の苦悩は、想像するに余りあるものです。