諸葛亮は第五次北伐の最中、234年に五丈原の陣中で亡くなりました。史書には病死とありますが、現代では過労死の線が濃厚であると考えられています。
実際、諸葛亮が担っていた役職は国の中枢を担うものばかりなので、その心理的なストレスや肉体的な疲労を考えれば納得です。しかし、それだけで断定してしまうのは時期尚早。というわけで、今回は諸葛亮の死因を直接的な原因、間接的な原因から考察していきたいと思います。
史書にある諸葛亮の死因
正史には「其年八月、亮疾病、卒于軍、時年五十四。」と記載があり、諸葛亮が死ぬ前に病気になっていたことがわかります。しかし、どんな病気であったのかまではわかりません。
病気になってすぐに死去したようにも読み取れるので、急性の病気にかかったことも考えられます。ただ、それであればその最期を側近たちが伝えるはずですし、三国志を編纂した陳寿の時代まで逸話が残っても不思議ではありません。それがないということは、症状という症状がなく原因不明のまま急死した、諸葛亮が病状を伏せていた、陳寿が諸葛亮を嫌っていたために記載を省いたなどの可能性が考えられます。
個人的には劉禅に後事を蔣琬に託す旨を伝えているあたり、長らく慢性的な病気を抱えていたが、それを伏せたまま生活をしていたのではないかと予想します。
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過労死説の根拠
過労死と言われているのは、魏氏春秋にある諸葛亮の生活ぶりと過労死の前兆となる症状が似ているからでしょう。魏氏春秋には司馬懿と蜀漢の使者のやり取りが記載されていて、諸葛亮は日にわずかしか食事を摂取せず、朝は早く起きて夜遅く眠る生活をしていたとあります。
過労死の前兆はいくつかありますが、その中に食欲の低下や眠たくても眠れないといった症状があります。睡眠については、諸葛亮は杖打ち20回以上の刑罰は自身で取り調べていたそうなので、単純に時間がなかっただけかもしれません。
ただ、過労死はデスクワークをする人に多いことや精神的な負荷が長らくかかると起こりやすいという点から見ても可能性はあるように思えます。もし過労死でなかったとしても、睡眠や食事が不足すれば内臓や脳、それに通ずる血管に異常が起こる可能性はあるので、それが直接的な死因で間違いないでしょう。
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諸葛亮の担っていた責務と間接的な死因
ここからは諸葛亮の間接的な死因を考えていきます。諸葛亮は劉備の死後に様々な役職を兼務し、傾きかけていた国家の基盤を整えました。しかし、その重すぎる責務が原因となり、病を発症したか過労死した可能性があります。
まず諸葛亮は劉備が即位した221年から没年まで丞相と録尚書事という役職に就いています。丞相は政治のトップであり、録尚書事は皇帝への上奏を取り仕切る尚書台(尚書省)のトップです。
さらに劉禅の即位後には益州牧を兼領していますが、これは地方を統括する長官であり、行政官としての役割や地方の軍権などを持っています。蜀漢の場合は益州しか有していないので、州牧=実質的に国の全土を統括する役割です。
蜀漢という国のほぼ全ての権力が諸葛亮のもとに集約されていることが分かります。もともと諸葛亮は晴耕雨読の生活を送り、悠々自適に暮らしていた人物です。それが独裁国家と揶揄されるほどの重責を担ってしまったので、それが原因で寿命が縮まったとしても不思議ではありません。
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【北伐の真実に迫る】
人を頼れない性格だった諸葛亮
諸葛亮は人に頼れない性格のように読み取れますが、それが間接的な死因となった可能性があります。前述したように諸葛亮は杖打ち20回以上の刑罰を自ら調べていました。裁く権利自体は限られた人しか持てませんが、調べるだけなら他の人でも可能です。
諸葛亮は法律を厳格に守った人物としても知られているので、公平に裁くためには自分で調べるのが一番と考えていたのかもしれません。また、諸葛亮は223年に劉禅が即位した後、丞相府を開府しているので、自身の属官を任命することができました。また、他にも州牧としての属官も持てましたし、尚書台の部下もいます。
つまり、人に仕事を任せられる環境にありながら、仕事のし過ぎで体を壊してしまったということなので、恐らく間接的には部下に仕事を任せなかったことが死因でしょう。
任せなかったのは完璧主義もしくは厳格すぎる性格が原因だと思いますが、他にも第一次北伐の馬謖の失敗を機に考え方が変わった可能性もあります。
実際、諸葛亮は第一次北伐の責任を取って自ら降格を願い出ていますし、その上疏の中で「臣明不知人」と言っています。これは自分が人のことを理解していない、人を見る目がないということです。つまり、この時の失敗を受けて、できる限りのことは自ら処理をするようになったとも考えられます。
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派閥問題による環境的な死因
諸葛亮は人に仕事を任せられなかったと述べましたが、これには性格上の問題以外に人材不足という蜀漢政権の構造上の問題もあります。
蜀漢という国は益州土着の豪族もいれば、劉焉や劉璋の時代に他の地域から移り住み士官した古株、劉備が率いていた古参のメンツ、劉備が荊州にいた頃に加わった劉備勢力内の新人メンバー、劉備の入蜀後に投降した者など様々な人たちがいました。
その中で派閥が形成され、優遇される順位、序列のようなものが形成されました。劉備は劉璋が降伏した後、人心を掌握するために土着の豪族をいくつか重役に据えています。しかし、割合的には古参のメンバーが優先で、次が荊州から劉備に付き従ってきたメンバー、そして旧劉璋配下の人材も益州以外の出身者が比較的多く選ばれました。つまり、誰でも採用できるわけではなく、派閥問題などを考慮した上で起用しなければいけなかったということです。
諸葛亮は北伐を始めるにあたり、益州土着の人物を起用し始めます。しかし、それでも起用されたのは丞相留府や州の属官が多く、政治の実権を握る尚書台で重役に就いた人物はわずかでした(張裔、李福、馬忠など)。このような状態では、人ではいくらあっても足りません。また、諸葛亮は公平性を遵守していたので、誰かに仕事が偏る状況を作れなかったと考えられます。そのしわ寄せを全て自分が行った結果、体を壊してしまったのではないでしょうか。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮は馬謖の失敗のように人を見る目がないと考えがちですが、蔣琬や劉巴などをしっかりと功績を残した人物を推薦していますし、街亭での失敗も王平を副将にすることで被害を軽減しました。
人材不足はあったかもしれませんが、優秀な人物は周りにいたはずなので、間接的な死因で言えば性格的な問題が大きかったように思います。そうして無理をしすぎた結果、過労死をしたか免疫の低下などによって病気にかかったと考えられます。
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