董卓(とうたく)が天子を擁して洛陽を占拠し、東から反董卓連合が攻め寄せてくると、
はるか西方の長安に遷都したことは有名な話です。
反董卓の関東諸侯軍は兵糧も尽き、約一年で自然消滅します。
この間、まともに董卓を攻めた軍勢はわずかだと云われています。
袁紹(えんしょう)は幽州牧の劉虞を新帝に掲げ、戦わずとも天下の形勢を逆転しようと試みますが、
遠交近攻の政治
打倒董卓の声はどこへやら、関東諸侯は黄巾の残党を交えながら勢力争いを繰り広げます。
袁紹は公孫瓚(こうそんさん)に怯える韓馥から冀州の牧の座を譲りうけ、河北に一大勢力を築いていきます。
これに脅威を感じた公孫瓚は南の袁術と手を結びます。
同時に袁紹は荊州牧の劉表と手を結んで袁術を牽制するのです。
徐州牧の陶謙は静観していましたが、黄巾の反乱に手を焼き、袁術に救いの手を求めて協力するようになりますし、
兗州牧の劉岱は黄巾の反乱で戦死し、曹操がその後釜に座ることになります。
関東は、袁紹―劉表―曹操―張楊と、袁術―孫堅―公孫瓚―陶謙の勢力に二分されていくことになります。
幽州の支配者、公孫瓚
幽州牧である劉虞を倒した公孫瓚は幽州を勢力下に治めます。
隣国である冀州の袁紹とは河北の勢力を巡って戦い続けます。
しかし防御の固い袁紹軍を破ることができず、逆に攻め込まれる立場になり、
地下道から易京を攻められ199年に自害しています。
本来であれば、北から公孫瓚が、南から袁術が攻める手はずでしたが、袁術は曹操に敗れ、
公孫瓚も袁紹に敗れ衰退していってしまったのです
徐州の牧、陶謙
反董卓連合には与しなかった陶謙(とうけん)ですが、都への奉納は欠かさず、牧の称号を得ます。
袁術派として袁紹や曹操と敵対しますが、曹操に敗れています。
またその後、逆に攻め込まれ徐州大虐殺を招きました。
194年に病死し、徐州を公孫瓚からの援軍である劉備に託しています。
荊州の牧、劉表
遠交として袁紹と結び、近隣の袁術と敵対します。
191年には攻め込んできた先兵、孫堅を討ったことでも有名です。
193年、袁術が、兗州牧の座をかけて曹操と戦った際には、袁術軍の兵站を断ち、曹操の勝利に貢献しました。
袁術死後、曹操と袁紹が対立した際には袁紹側についています。
兗州の牧、曹操
劉岱亡き後、鮑信の強い推しもあり、兗州の牧となり黄巾の残党百万を打ち破ります。
193年には、別の人間を兗州牧に立てて攻め込んできた袁術を袁紹と組んで返り討ちにしています。
袁術は劉表に糧道を断たれ、本拠地の南陽を捨てて揚州の寿春に逃げ込んだと云われています。
この時、袁術と同時に曹操・袁紹陣営に攻め込んだのが公孫瓚と陶謙です。
結果は袁紹、曹操の大勝利に終わります。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
袁術と袁紹が一枚岩であったら、関東によけいな群雄割拠は起きなかったでしょう。
董卓もおいそれとはしていられなかったはずです。
三国志史上最大の「離間の計」、それが董卓陣営からの袁術・袁紹への謀略だったように思えます。
また、それを踏み台にして勢力を拡大していくのが曹操です。
曹操の台頭は、袁家の家督争いがあったからこそのものだったといえます。
この間隙さえ突かれなければ、袁家の天下は間違いなくきていたのです。
董卓亡き後も李傕は袁術を懐柔しようと努めます。
そして袁術と袁紹を組ませないようにするのです。
もし袁紹が偽りをもって袁術に手を貸すよう働きかけていたとしたら、
袁術は有頂天になって即、皇帝即位を実行に移すでしょう。
袁術の皇位専称はもしかすると袁術を孤立させるための袁紹の計略だったかもしれませんね。
だとしたら大成功です。
または袁紹を取り込もうとする袁術の最終手段だったのか。
だとするとまったく意味がなかったことになりますね。
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