蜀の存在意義を根本から揺るがしました。
劉備(りゅうび)、孔明と繋がれた北伐、纂奪者である魏を滅ぼし
正統な蜀漢王朝を中原の大地に立てるという大義は、一体どうなるのか?
それに応えるべく、後継者蔣琬(しょうえん)は蜀の指示系統の変革を目指します。
前回記事:130話:孔明無言の帰還と魏延の最後
この記事の目次
蔣琬 北伐を延期しつつも守りを固める
孔明の遺言で後継者に指名され蜀の政治の重責を担った蔣琬は
まず孔明が執念を見せた北伐の延期を決定します。
これは独断ではなく、明らかに孔明の遺言でしょう。
もちろん、ただ延期するのでは漢の後継者という自負だけで保たれた
蜀の根本原理が崩壊しますから、自らは攻めないが準備は万端に整え、
イザという時には出撃できるような国防体制を取りました。
同時に魏と敵対し、呉とは連携を取るという外交方針も、
孔明時代と変わらず堅持し続けます。
つまり、魏を滅ぼさない限り、蜀漢の正統性はないという
ギリギリチキンレースは続行する事にしたのです。
蔣琬は、権力集中型の丞相府を廃し、尚書省を復活させるが・・
蔣琬は、このように遺言を忠実に守りつつも、行政組織としては、
孔明が自身に権力を集中する為に創始した丞相府を廃止し、
尚書省を復旧させています。
こうして蔣琬自身が尚書令になり副官に費禕(ひい)を置いて
尚書僕射(しょうしょぼくしゃ)にし、後継者を明確にしました。
しかし、戦時に、これだけではコントロールが効かないと考えた蔣琬は、
西暦238年、結局、大将軍府を開いて自ら大将軍に上り、同時に、
録尚書事(ろくしょうしょじ)を兼務して尚書の事も総攬しました。
こうして、尚書令には費禕を引き揚げ、尚書僕射には、
董允(とういん)を引き上げています。
さらに蔣琬は、西暦239年大将軍から大司馬に上ります。
こうして蔣琬は前線である漢中に赴任し、成都の費禕と
国政の仕事を分担しつつ活動するようになります。
大司馬は前漢における三公の一つで後漢では大尉でした。
蔣琬としては、孔明が生涯こだわった丞相の独裁ではなく、
ゆくゆくは三公+丞相の合議制を新しい蜀の体制としたかったのでしょう。
すくなくとも、孔明のような天才が一人で国をリードするのではなく
手堅い能吏が複数で蜀の体制を維持する方向へ蔣琬は国の舵を切ります。
将軍の配備を決定し、守りを厳重に固める
蔣琬は、孔明の遺言に従い、蜀周辺の守備の体制を決定します。
国防軍の大半は、益州の北方である漢中に駐屯させて、
いつでも中原に撃って出れるポーズを堅持します。
そして宿老の呉懿(ごい)を車騎将軍、王平(おうへい)を安漢将軍。
馬岱(ばたい)を征西将軍として漢中に配置、廖化(りょうか)、張翼(ちょうよく)、
胡済(こさい)、姜維(きょうい)のような諸将を北方の魏に備えて配置し
鄧芝(とうし)を東方担当として呉との国境を守らせ、南蛮に対しては、
馬忠(ばちゅう)、張嶷(ちょうぎょく)を配置して守備しました。
この体制は、蜀漢が滅びるまでの二十数年間、
人間の入れ替わりはあっても殆ど踏襲される事になりました。
調整型の英雄だった蔣琬
蔣琬は、孔明の死が、劉備入蜀後に乗り込んできた荊州襄陽閥と
地元の士大夫層である益州閥のバランスを崩してしまう事を恐れていました。
蔣琬や、その周辺の人物に対して、様々な讒言が飛び交っても、
それを相手にしなかったのは無私な蔣琬の性格もありますが、
何より、「ここで派閥同士の争いを生じさせてはならない」という
蔣琬のバランサーとしての考えがあった事は明白でしょう。
蔣琬流の北伐、
一方で蔣琬には、北伐の志を引き継ぐという考えもありました。
彼は、時間がかかり補給も難しい陸路を取らずに漢水を利用して
東進し魏興(ぎこう)や上庸(じょうよう)を攻撃する計画を提案していますが、
水路は撤退が難しいと反対意見が強かった上に、蔣琬自身も持病があって、
延び延びになってしまい、ついに劉禅(りゅうぜん)の詔で
北伐は中止に追い込まれてしまいました。
後任の費禕は北伐に消極的であり、本格的な北伐の再開は姜維が253年に
再開するまで、19年程も間が空く事になります。
三国志ライターkawausoの独り言
蔣琬によって、諸葛亮亡き蜀の体制は、ほぼ確定されます。
彼の手腕の如何では、派閥争いに端を発する北伐推進派と
国力温存派に蜀臣が割れた可能性もありますから、
難しい時期に上手くバランスを取った人だと言えるでしょう。
さて、以降は、孔明亡き後の魏、呉、その他の地域について
見ていく事に致しましょう。
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