魏の猛将張遼、合肥の戦いでは800名の決死隊で孫権の10万の大軍を圧倒し劣勢の魏軍を勝利に導いた人物ですが、演義におけるその最後は、呉の丁奉の矢を受けて落馬し、その傷が元で死んでしまうというショボいものしかし、史実の張遼は病身を推して出陣し、呉の呂範を破って後に病死しています。
どうして、正史と演義ではこんな違いが出てきてしまうのでしょうか?
今回は、その点について考えてみます。
劉備を引き立てる為に損な役回りを引き受けているのか?
三国志演義は、非常な劉備&孔明びいきで構成されているので劉備や孔明に対して好意的な存在は善玉として描かれ逆に敵対する存在は実物以上に卑小で悪党な人物にされてしまいます。
例えば公孫瓚が、劉備の兄貴分という立ち位置なので好意的に描かれ周瑜は孔明を引き立てる為に嫉妬深い陰険な人物にされています。
この演義の法則に照らすと張遼もそうなりそうですが、実際には張遼は関羽とは兄弟のような間柄として描かれており、三国志演義では好意的に描かれている敵キャラの一人です。
関羽は名将なので関羽と交流がある張遼も名将として描かれるわけですね。
もちろん、それでも関羽よりは弱いと印象付ける為に、関羽が斬殺した顔良と文醜相手に苦戦するという形で一種の噛ませ犬の役割を引き受けている点はいなめませんが顔良と文醜自体が猛将扱いなので、そこまで評価は下がりません。
このように張遼は曹操配下でありながら演義では重んじられており、劉備や関羽の引き立てにされている印象は弱いです。
劉備の死の時期と被った事が張遼の不運の理由
張遼の不運、それは死んだ年が劉備最後の戦い夷陵会戦の年だった事です。
実は、西暦222年は西では夷陵の戦い、東では濡須口の戦いが起きており、曹丕が自ら親征して、曹休、曹仁、張遼、臧覇、夏侯尚、張郃、徐晃など
名だたる名将が参加して孫呉と覇権を争いました。
夷陵の戦いが陸遜の消極的な撤退戦術と蜀軍がだらだらと展開していく最後の大規模な焼き討ち以外に目玉が乏しい戦いであるのに比べて、
濡須口の戦いは内容が締まっており、もし三国志演義に並べて記載すると劉備最期の戦いが、完全にピンボケする恐れがありました。
夷陵の戦いの次は劉備が白帝城で病没し、主人公が諸葛亮に代わる大事な会もちろん、ここにも濡須口の戦いを挟む事は出来ません。そこで、三国志演義の作者たちは、濡須口の戦いをほぼスルーし、張遼の寿命を二年程伸ばしました。
代わりに黄初5年、西暦224年に曹丕が広陵を攻めて徐盛の偽城計に掛り退却してしまった話と、翌黄初6年、曹丕が再び広陵を船団で攻めて長江が凍結するという事態になり、船団が立ち往生して退却したのを孫韶が部将の高寿を使って要所要所に伏兵させて、大いに曹丕を破った戦いをミックスさせて、その途中に張遼が曹丕を庇い、丁奉の矢に当たり戦死するという話を組み込んだのです。
ここでの張遼は華々しい活躍もなく、丁奉の矢に倒れて同僚の徐晃に救われるも矢傷は重く、回復しなかったという筋立てでした。病を推してまで従軍し、呂範を撃破した不屈の将軍という印象は弱くなり随分、年も取っていたから矢傷は堪えたんだろうなという幕引きですね。
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三国志ライターkawausoの独り言
張遼は、三国志演義の前に流布していた三国志平話においては、智嚢先生と呼ばれ、魏における軍師役を担わされていました。それだけ、昔から知名度が高い登場人物だったのでしょう。
加えて関羽とも兄弟のような間柄とされては、三国志演義の作者達にとっても蜀とぶつからない限りは、讃えて損はないキャラクターなのです。その点は、どうしても諸葛亮に被る為にdisられずにはおかない周瑜との大きな違いです。
しかし、惜しむらくは、西暦222年という劉備が夷陵の戦いで敗れ翌年病死するというタイミングで手柄を立てて病死した為に劉備ageの三国志演義の方針には合わず、丁奉の矢で殺されるという寂しい最期になってしまったのです。
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