263年5月、魏の大軍が蜀漢を滅ぼすために漢中へ向けて進軍しました。蜀漢軍は初戦で漢中を失い、数ヶ月のうちに成都の眼前まで敵が迫る事態に。
その際に諸葛亮の息子である諸葛瞻は、敵将鄧艾を防ぐべく出陣しますが、綿竹関で敗れそのまま戦死しました。ただ、この戦いにおける諸葛瞻の対応には不可解な点があります。諸葛瞻が散った綿竹関は成都から目と鼻の先ほどの距離ですが、もともとは涪城という綿竹関よりも北に位置する城にいました。
しかし、諸葛瞻はなぜか綿竹関へ退き、自身の敗死によって劉禅が降伏を決意するきっかけを作っています。そこで、今回は諸葛瞻が綿竹関で戦った理由と意図を考察していきます。
鄧艾の奇襲と諸葛瞻の初動
蜀漢軍は開戦から数ヶ月で漢中を失ってしまったので、大将軍であった姜維は防衛ラインを下げて、剣閣に入りました。
ここには蜀漢軍の主だった将兵が集まっていたので、魏軍の主力を率いる鍾会も容易に進軍ができなくなります。また、敵地に深く入ったことで魏軍は兵糧の運搬が困難になり、鍾会は撤退を検討していました。
しかし、この時に鄧艾が陰平道という険路を通り、成都へ奇襲計画を立案。司馬昭の反対を押し切ったこの無謀な強行軍は見事に成功し、鄧艾は姜維の籠もる剣閣を迂回して成都が狙える江油へ到達。突然の鄧艾軍出現に驚いた守将の馬邈は、すぐさま降伏をします。
そして、諸葛瞻は劉禅の命によって急遽江油の南にある涪城へ進軍することに。この時、黄権の息子であった黄崇が険阻な場所に陣取り、鄧艾を迎撃すべきと進言していますが、諸葛瞻はこれを拒否。そして、涪城に迫った鄧艾と一戦を交えますが、初戦に敗北した諸葛瞻は涪城から撤退し、南にある綿竹関へ入ります。
再び綿竹関で鄧艾軍と戦うことになり、一度はその攻撃を退けますが、鄧艾が逃げ腰になっている息子の鄧忠と部下の師纂を斬ろうとしたため、2人は死に物狂いで攻撃を再開。その結果、諸葛瞻や息子の諸葛尚、黄崇などを含む多くの将兵が敗死しました。
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諸葛瞻、姜維、黄皓の関係性
諸葛瞻の対応には合理性や明確な目的意識が感じられません。ただ、鄧艾が諸葛瞻に対して降伏勧告をした際に使者を斬り捨てていることから、戦う意志はあったようです。そこで考えられるのが、剣閣にいた姜維との連携不足です。ただ、それを話す前に蜀漢政権内部の人間関係について話しておきます。
諸葛亮の存命時には内政も軍事も丞相であった諸葛亮が担っていました。しかし、この体制は費禕の時代から変わり始めます。姜維は費禕の死後に大将軍と録尚書事となり、軍事と政治のトップに立ちますが、内政にはほとんど関わっていません。
内政は尚書令の陳祗が権力を握っていました。その陳祗が258年に没すると、宦官の黄皓が力をつけ始め、姜維を排除しようと動き始めます。
特に黄皓の発言権や影響力が強くなると、成果の上がらない北伐を続ける姜維を非難し、徐々に北伐に賛成する人物を排除していきました。
尚書令の副官に当たる尚書僕射だった諸葛瞻もまた北伐には反対をしていて、姜維を除くという点で黄皓と意見が合致したことから二人は結託を始めます。
諸葛瞻はその役職上、皇帝である劉禅に上奏文の取次が出来たため、姜維の兵権を奪う目的で益州刺史にするよう上奏しようとしました。そのくらい諸葛瞻と姜維は相容れない関係性だったのです。つまり、諸葛瞻は姜維との関係が悪かったことから、連携を取ることを拒否したと考えられます。
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諸葛瞻の不合理な行動のワケ
ここからは姜維との連携を拒んだという前提で諸葛瞻の行動を考えていきます。まず、涪城から出て要地を押さえなかったのは、自身が前線に出ている間に姜維が剣閣を放棄、あるいは突破されることを懸念したためです。
鄧艾は奇襲をする旨を司馬昭に進言した際に、陰平道を抜ければ姜維は剣閣を放棄するから鍾会は容易に進軍ができるようになる。仮に剣閣にとどまった場合は自身が涪城で対する敵が少なくなるのでいずれにしても有利に事が運ぶと述べています。姜維の考えがわからない以上、諸葛瞻が涪を離れれば、剣閣が落ちた時に鍾会の大軍を防ぐすべが無くなります。
続いて、諸葛瞻が涪城で鄧艾と対峙し、初戦に負けただけで綿竹関へと退いたのは、敗報を知った姜維が涪へ後退する可能性があったためです。
姜維が合流すると、諸葛瞻は軍事のトップである姜維の指揮下に入ることになります。兵権を奪ってやりたいくらいの相手だったので、諸葛瞻は死んでもそれを避けたかったのかもしれません。
いずれにしても、お互いが連携を取っていなかったことは明白です。姜維は諸葛瞻が綿竹関で敗戦したことを知ると、剣閣を放棄して成都へ退くことを決意します。しかし、その際に涪城方面から成都に直行するルートではなく、巴西に入って迂回をするルートを選択しました。これは姜維が諸葛瞻の敗報という「結果」しか知らず、どういった戦い方をしていたのか、敵の数がどれくらいかという経過や詳細を知らなかったからです。
鄧艾軍は奇襲をするために少数でしたし、諸葛瞻と戦う前は士気も下がっていました。そういった情報があれば、涪か綿竹へ引きつけた鄧艾軍の背を姜維が討つこともできたでしょう。また、姜維は成都に戦う力が残っていない事もわかっていたはずなので、情報さえあれば強引な手を使ってでも最短ルートで帰還したでしょう。
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諸葛瞻と姜維が連携できていたら魏軍を撃退できたのか?
魏軍は大軍で進軍速度が遅く、さらに兵糧運搬は容易ではありませんでした。陰平道を抜けてきた直後の鄧艾軍は兵糧が尽きかけていましたし、鍾会も剣閣での足止めされたのを機に撤退を検討していたので、鄧艾を早めに無力化していれば魏軍は撤退していたでしょう。
しかし、蜀漢が滅亡した際に国庫に残っていた兵糧もわずかだったので、蜀漢軍も同様に長くは保ちませんでした。
また、諸葛瞻の敗死と鄧艾が成都に迫ったことで劉禅の戦意は折れてしまったので、劉禅が他のきっかけで降伏をした可能性も十分にあります。
三国志ライターTKのひとりごと
諸葛瞻は実際に兵を率いた経験がなかったので、歴戦の武将である鄧艾を怖れた可能性があります。
実際に鄧艾が陰平道から現れると江油を守っていた馬邈を始め、周辺の城もこぞって降伏をしているので、それだけ鄧艾の名声が鳴り響いていたか、内部に深く入られたことで戦意をくじかれたとも考えられます。
いずれにしても、経験不足の人材を駆り出すほど蜀漢は人材不足が著しかったので、遅かれ早かれ滅ぼされていたのかもしれません。
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