三国志演義では、武将同士の一騎打ちは多いですが、その多くは創作です。将軍ランクの人は、危険な前線には出ずに兵士を指揮するのが普通ですし、また戦術的にも理に適うからです。
しかし、中には本当に一騎打ちを行ったケースも存在します。それが太史慈(たいしじ)であり、一騎討ちの相手は孫策(そんさく)でした。
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この記事の目次
ちゃっかり者の太史慈、青州刺史に恨まれて逃走
太史慈は西暦166年青州、東菜郡の黄県に産まれました。若い頃は、東菜郡に仕官していましたが、そこで青州と東菜郡の揉め事が起こってしまいます。日本でもよくある市と県の権限争いのようなものでしょうが、太史慈は、双方の調停役として都に上って上奏する事になります。
ところが、ちゃっかり者の太史慈は、青州から預かった書類は引き裂いて捨て東菜郡の書類だけを上奏しました。結果、都は、東菜郡に有利な判断をして面目が潰れた青州の刺史は、太史慈を恨んで目をつけます。それを知った太史慈は、青州から遼東郡に逃走してしまいました。
母の面倒を見てくれた恩義を返す為に孔融を助ける
この時、逃亡した太史慈の母の面倒を見てくれたのが、後に曹操(そうそう)に仕える学者の孔融(こうゆう)です。
そう!三国志一のド変態、安心して下さい穿いてませんよ、でお馴染み、全裸男、禰衡(でいこう)の親友でもある孔融です。
その孔融、北海郡太守の頃に帝の命令で黄巾賊討伐に出かけるのですが、戦争の才なんかまるでない孔融、逆に黄巾賊の頭目である管亥(かんい)の軍勢に城を包囲されてしまうのです。
実は太史慈、母親の面倒を見てもらった恩義で孔融軍に加わっていたのですが管亥の軍勢は手強く、中々包囲を突破できませんでした。
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太史慈、策略を巡らして包囲を破る
そこで、太史慈は包囲を突破する為に一計を案じました。翌朝、太史慈は、手ごろな棒を一本担ぐと、大声を上げて城門から出ます。当然、黄巾軍は、敵襲とびっくりして守りを固めます。
すると、太史慈は、担いできた木の棒を地面に立てると、そこに向けて、矢を何発も射て、暫くすると城に引き返したのです。
「なんだよ、、弓の訓練か、脅かすな」黄巾軍は拍子抜けして、また、バラバラに散らばります。
翌日も太史慈は、棒を担いで大声を上げて城から出てきます。そして、黄巾軍が守りを固めると、また棒を地面に立てて、矢を放って当てて、城に引っ込むのです。
それが毎日、毎日繰り返されました。
ある日の事です、太史慈がまたいつものように手ごろな棒を持って、
城から出てきました。
「はいはい・・弓矢の練習だろ?好きなだけやればいいさ」
黄巾軍は、太史慈を気にも留めないでぼーっとしています。
その瞬間、太史慈は持っていた棒を投げ捨てて、馬に鞭を当てて、油断しきっている黄巾軍に突進してきたのです。
驚いた黄巾軍は対応が遅れてしまい、太史慈はまんまと包囲を破る事に成功しました。
太史慈はこのまま馬で走り続け、平原にいた劉備(りゅうび)に救援を要請します。劉備は救援を受け入れ、3000名の精鋭を太史慈と共に送り込んだのでさしもの管亥も包囲を解いてバラバラに散っていきました。黄巾軍の油断を突いた華麗な計略で太史慈は見事に恩人の孔融を救い出したのでした。
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太史慈、偵察で孫策と遭遇し一騎打ち
その後、太史慈は揚州刺史の劉繇(りゅうよう)に面会して仕官しますが、その頃に江東で勢力を伸ばしている孫策が揚州に攻めてきます。劉繇は太史慈を偵察部隊として使い孫策軍の様子を見にいかせました。太史慈が、物音を立てずに、草むらを馬で進んでいると、向こうからも馬に乗った人物が近づいてきました。
太史慈「これはいい、敵の偵察だ、とっ捕まえて敵情を吐かせてやる」
太史慈が馬に鞭を入れて、飛び出すと、相手も同じ事を考えたようで馬に鞭を入れて突進してきました。二人はモノも言わず、何合も矛で撃ち合いますが、敵の偵察も、かなりの腕前、手取りにするどころか、互格に戦うのが精一杯です。
その間に、敵の味方らしき、騎兵が近づいてきました。
太史慈「ちっ、、この勝負、預けたぞ!!」
太史慈は捨てセリフを残して、その場を去ります。実は、太史慈がこの時に打ち合いを演じた偵察こそ江東の小覇王、孫策でした。孫策は部下が止めるのも聞かずに自ら敵の状態を見に来て、そして偶然、太史慈と遭遇したのです。
これは正史にも描かれている場面で実際にあった一騎打ちと言われています。
太史慈、孫策に降伏して部下になる
劉繇は、間もなく孫策に敗れますが、太史慈は劉繇に義理を立てて、丹陽太守を称して、孫策と戦います。しかし、戦略では孫策の方が一枚も二枚も上手で太史慈は孫策に捕縛されます。
太史慈は、死を覚悟しましたが、孫策はかつて一騎打ちをした太史慈を覚えていてその罪を許し自分に仕えるように言いました。太史慈は、孫策の度量の広さに感服して、配下になります。孫策は太史慈を信じる心が強く、太史慈に軍勢を預けても平気であり、周囲が「裏切るのでは?」と忠告しても気にしませんでした。
曹操(そうそう)、太史慈をスカウトするがあっさり断られる
太史慈も、孫策の厚い信頼に応えて、黄祖(こうそ)討伐や、劉表(りゅうひょう)の甥の劉盤(りゅうばん)の進攻も跳ねのけて呉の武将として手柄を立てました。その勇名を聞いた人材マニアの曹操は太史慈に好条件をちらつかせて引き抜こうとしますが、これを太史慈はあっさり断っています。
勇将太史慈は、寿命には恵まれず、赤壁の戦いを目前にした、西暦206年に41歳の若さで病死しています。
実は天下を狙っていた?野心家太史慈の最後の言葉
裴松之(はいしょうし)の引く、呉書「韋昭(いしょう)選」によると太史慈は内心では密かに天下を狙っていたようで、死ぬ間際に、「男として産まれたからには、七尺の剣を帯びて、天子の階を昇るべきを、それも出来ずに死ぬとは」と言ったとされています。もしかして、曹操のスカウトを断ったのも、人材が厚い魏では、自分が成りあがるチャンスが無いからという思惑だったりして・・
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三国志ライターkawausoの独り言
三国志のゲームでは、魏や蜀より少ない呉の猛将として重宝される太史慈。でも、何か陰が薄いと思っていたら、本当は赤壁の直前に死んでいたんですね。
もっとも演義では、赤壁でも活躍し翌年の合肥の戦いで張遼と戦い、夜襲を仕掛けた際に受けた傷が元で死んだ事になっています。でも、やはり陰が薄いなあ。
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