諸葛瑾(しょかつきん)のイメージは三国志演義の影響で、天才軍師、諸葛孔明(しょかつこうめい)の兄という形でほぼ固定されていると思います。決して平凡な武将ではない諸葛瑾ですが弟の偉大さに、その人生は霞んでしまいがちですので、はじさんでは、呉の瑾ちゃんの人生にスポットライトを当てたいと思います。
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この記事の目次
若き日の諸葛瑾の姿
諸葛瑾子瑜(しょかつきん・しゆ)は、西暦174年、徐州琅邪国陽都県で、諸葛珪(しょかつけい)の息子として生まれます。弟の諸葛亮から見ると7歳上で、孔明が物心付く頃には勉学の為に洛陽に上っていたようです。「毛詩」「尚書」「左氏春秋」を治めて、実母に孝行を尽くし、実母の死後は、継母にも孝行を尽くしたという若い頃から出来た人でした。
後漢の戦乱を逃れて揚州へ
諸葛瑾が14歳頃に病気がちだった父、諸葛珪が死にました。まだ仕官もしていない諸葛瑾に弟達の面倒を見る力はないので諸葛珪の家族は父の弟の諸葛玄(しょかつげん)に率いられる事になります。
諸葛玄に率いられた孔明達は戦乱を逃れて荊州に行き、一方の諸葛瑾は、父の後妻である継母と共に楊州へと逃れていきます。こうして、二人の兄弟は離ればなれになりました。
諸葛瑾、孫権に見出される
西暦200年頃、26歳の諸葛瑾は曲阿という所にいました。そこで知遇を得た人がたまたま、孫権の姉の婿である弘咨(こうし)という人物で、弘咨は、諸葛瑾を非凡な人材であるとして孫権(そんけん)に推挙しました。
孫権も諸葛瑾を一目みて、なんだこいつまるで驢馬みたいな顔だなその顔相のただならぬ雰囲気を見て、当時、新たに加わった魯粛(ろしゅく)同様に賓客として扱いました。
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諸葛瑾って何が凄いの?人間観察力
何かと弟、孔明と比較され存在が霞みがちな諸葛瑾ですが、彼には、天才孔明でも及ばない才能がありました。
その第一が人間観察力です、諸葛瑾が仕えた孫権は名君ですが、気が短く、負けん気が強いという癖のある人物でした。
忠臣たるものは、当然、君主の過ちには諫言しないといけませんが、孫権は諫言されるとヘソを曲げて、その家臣と距離を置いてしまうという頑固な所がありました。
重臣の張昭(ちょうしょう)のように自宅を燃やされようが動じない人なら何でもないでしょうが普通の家臣は、そんな毎回、孫権に遠ざけられては出世にも響きます。そこで、諸葛瑾は正面切って諫言せず、それとなく分かるようなたとえ話などを駆使して分かってもらうように努めていました。賢い孫権ですから、諸葛瑾の遠回しな諫言を察知して素直に態度を改めたのです。
諸葛瑾に救われた、虞翻、朱治、殷模
諸葛瑾は自分ばかりではなく、孫権に嫌われた人物についても、さりげなく弁護し孫権の怒りを解いています、呉郡太守の朱治(しゅち)、校尉の殷模(いんも)、そして、毒舌と直言で知られ酒乱の孫権の酒を拒否して斬られかけた虞翻(ぐほん)に至っては、熱心にその有能さを孫権に説いて救いました。
人の好き嫌いが激しい虞翻ですが、この時の恩を忘れず諸葛瑾には生涯、好感を持ち続けています。
また、孫権も穏やかで裏表のない諸葛瑾を気に入り「瑾!瑾!」と呼び捨てして親愛の情を示していました。今風に言えば、瑾ちゃん!瑾ちゃん!という感じかも知れません。
諸葛瑾って何が凄いの?忠義に厚い
弟である諸葛亮孔明が、呉を赤壁の戦いに引き込む為に尋ねてきた時の事です。孔明が非凡な人物であると知った、孫権は諸葛瑾に「何とか君の弟を呉に引き抜けないものだろうか?」と相談します。
すると、諸葛瑾は首を横に振りいいました。
「私が殿を裏切る事がないように、弟も劉備を裏切る事はないでしょう」
孫権はこの言葉に感動し諸葛瑾に絶大な信頼を置くようになります。
後に、劉備(りゅうび)が義弟関羽(かんう)の仇討ちの為に、呉討伐の軍を起した事があります。前線を守る陸遜(りくそん)に、「諸葛瑾は孔明の弟だから内通の疑いはないだろうか?」と疑惑の目を向ける武将がいました。
陸遜は「そのような事はあり得ぬ」と否定したものの心配になり、孫権に手紙を出しますが、孫権は即座に答えました。
「私が諸葛瑾を裏切らないように、彼も私を裏切りはしない陸遜、君にもそれを信じてもらいたい」
陸遜は孫権の諸葛瑾を信じる気持ちの厚いのに感服して、二度と疑う素振りをみせなくなります。
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諸葛瑾の何が凄いの?損害を出さぬ用兵
劉備が夷陵の戦いで敗北した後、その隙を突いて曹丕(そうひ)が呉に進攻します。使者で文官のイメージがある諸葛瑾ですが、実は後年、大将軍に上る歴とした武官で、魏の夏候尚(かこうしょう)に包囲された朱然(しゅぜん)の守る江陵城の救援に向かいます。
この時、諸葛瑾は、思いきった攻撃をせず、魏が長江の中州に造った浮橋を攻撃してダメージを与え、中州まで進軍しますが夏候尚に火計を掛けられると損害が出ない間に、さっさと退却しました。
孫権は報告を聞いて、臨機応変さが欠ける諸葛瑾の用兵に不満を持ちますが後に、諸葛瑾が再び、浮橋を攻撃して夏候尚軍を退却に追いやると、諸葛瑾が後日の反撃の為に兵力を失わなかったのだと悟り、賞賛します。諸葛瑾は、武官ですが決して戦争が上手というわけではありません。なので逆に細心の注意を払い、損害が出ないような用兵を心掛けました。
彼は236年の合肥の合戦、西暦241年の芍陂(しゃくは)の役でも、戦況が芳しくないとみるや、兵を引いて損害を出さない撤兵を見せています。
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諸葛瑾の何が凄いの? 驢馬顔
諸葛瑾は、顔が細長く馬面だった事でも知られています。恐らく目も離れていたのか、驢馬のような顔だと言われていました。孫権は一度、からかい半分で驢馬の顔に墨で諸葛瑾子瑜と書いて大笑いします。
諸葛瑾は平気な顔でしたが、側に控えていた幼い息子の諸葛恪(しょかつ・かく)は怒り、朱墨で諸葛瑾子瑜に「之驢」と書き足して諸葛瑾のロバにしました。
孫権は諸葛恪が利発なのに驚き、文字の通りこの驢馬を諸葛瑾に与えたそうです。しかし、諸葛瑾は幼くして利発すぎる息子が、やがて一族を滅ぼしはしないかと心配していたようで、残念な事にそれは現実になります。
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諸葛瑾の何が凄いの?徳に適う生き方
諸葛瑾が大将軍になった頃、二人の息子、諸葛恪と諸葛融(しょかつゆう)は、それぞれ一軍を率いる立場であり、蜀では弟、孔明が丞相として君臨し、魏には同族の諸葛誕(しょかつ・たん)が重臣として勢力を奮っていました。
世の人々は、諸葛一族の隆盛を称えましたが、諸葛瑾は少しも奢り高ぶる事はなく
終始、穏やかで質素な振舞いを通しました。
西暦241年、諸葛瑾は68年の生涯を閉じますが、葬儀では普段着での埋葬を望み豪華な副葬品を入れる事もありませんでした。諸葛瑾は、相続争いの元になるからと正妻と死別してからは再婚せず、妾との間に出来た子供も決して取り立てなかったのです。世の人々は諸葛瑾を才能では弟に劣るが、徳に適う振舞いでは、決して負けてはいないと、その素晴らしい生き方を称えました。
三国志ライターkawausoの独り言
諸葛瑾は若い頃に生き別れた孔明と、蜀と呉で敵同士になった為に公私の別を厳しくして、馴れ馴れしくならないようにしていたようです。それでも、二度目の呉蜀同盟の後は手紙のやり取りを通し双方の近況を伝えあい当時、子供のない孔明に息子、諸葛喬(しょかつ・きょう)を養子に出したりしています。
孔明も実子、諸葛瞻(しょかつ・せん)が8歳の時に諸葛瑾に手紙を送り「まだ子供なのに早熟すぎて大人物になれないのではないかと心配です」と親馬鹿な手紙を送っています。孔明にとっても、兄の諸葛瑾は心を許せる数少ない肉親だったのかも知れないですね。今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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