※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。
人格も素晴らしく才能も豊かである、人間そうだったら最高ですが、
実際には、そんな神様みたいな人はなっかなかいません。
大抵は才能豊かでも性格が悪かったり、性格はいいけどそれだけが取り柄
或いは、才能も人格もダメという人もいます。
まあ、何が言いたいかというと、どっちか一方あれば贅沢は言わない方が
いいんじゃないという事で、今回は才能豊かで性格はアレな法正(ほうせい)を紹介します。
この記事の目次
若い頃は不遇だった法正
法正孝直(ほうせい・こうちょく176~220年)は
扶風(ちっぷう)郡、郿(び)県の人です。
彼は性格が悪い人として知られますが、祖父の法真(ほうしん)は
清廉潔癖な人柄で有名だったそうです、祖父に似なかったんですね。
西暦195年、20歳位の時、扶風郿県を大飢饉が襲います。
食うに困った法正は、同郷の孟達(もうたつ)と共に、
益州(えきしゅう)牧の劉璋(りゅうしょう)を頼ります。
この孟達というのは後に劉備に仕えた有能な人ですが
信義より合理を重んじる性格で、関羽(かんう)が樊(はん)城で孤立した時に
救援要請を無視して見殺し魏に亡命して曹丕(そうひ)に可愛がられた人です。
そういう人と親しい所に、法正の人柄が見えます。
ようやく益州に入った法正ですが、長らく待たされて新都の県令になり
次には軍議校尉になりますが、大きな仕事を任される事はありませんでした。
同じく野心家の張松と共に野望を抱く・・
才能があっても仕事が回されない法正は、やさぐれていき、
同僚に性格を注意される事になり、ますます評判が落ちます。
法正は、自分を貶した人間、自分を助けた人間を毎日記録して、
いつか相応の報いを与えてやると決意する暗い毎日を送ります。
さて、法正は、この頃、劉璋の別駕の張松(ちょうしょう)と親しくなりました。
この張松は清廉潔白な立派な人・・とは言い難く、有能なのですが、
非常に上昇志向が強く、何とか出世したいといつも思っている人です。
ところが、張松も同じく劉璋には使われませんでした。
張松「ウチの社長じゃダメだ!身内ばっかり重役につけてよ!
もっと益州の気風を刷新しないと組織はポシャンだ」
法正「そうだ!そうだ!もっと言ってやれ!」
お互いに、劉璋に冷遇されている二人は、会っては密かに
劉璋の悪口を言い合いストレス発散していました。
張松、曹操に邪魔扱いされた腹いせに劉備を持ちあげる
さて、益州で劉璋がのほほんと暮らしている頃、
西暦208年、中原では曹操(そうそう)が北の袁紹(えんしょう)を破り、
その息子達も烏桓(うかん)族もろとも撃破、西では馬騰(ばとう)のような
西涼軍閥を懐柔(かいじゅう)して味方につけていました。
後は、呉の孫権(そんけん)を降伏させれば天下は曹操のモノという
日の出の勢いだったのです。
劉璋は、今の内に曹操に取り入ろうと別駕の張松を派遣しますが、
赤壁の戦いで忙しい曹操は、適当にあしらい張松を帰します。
プライドが高い張松はこれで曹操を嫌い怒って成都に帰ります。
張松「曹操はチビでケチで猜疑心が強い小者です。
あんなヤツと仲良くするより江夏(こうか)の劉備(りゅうび)と結びましょう」
怒りが収まらない張松は、劉璋の前で曹操をけなし、
替わりに会った事もない劉備を褒め称えました。
法正は、劉備の元に派遣され、その人物を評価する
張松が劉備を持ちあげるので劉璋は劉備に興味を持ち、
誰かを挨拶に行かせようとします。
張松「それならば、是非、法孝直を派遣して下さい」
張松が勧めたので劉璋は法正に劉備に挨拶するように命じます。
乗り気ではなかった法正ですが、友達の張松の推薦でもあるので
嫌々ながら、江夏まで劉備を尋ねます。
しかし、あにはからんや、実際に会った劉備は英雄の資質を備え
劉璋などより100倍は優れて見えました。
戻ってきた法正は張松を尋ねて熱心に口説きました。
法正「劉備は偉いものだ、うちの社長なんぞ比較にならん
ここは何とか、劉備を益州に呼び寄せ社長を追い落として、
その手柄で、もっと高い地位に就こう」
張松「そうか!よし、それなら、なんとか劉備を
益州に呼び寄せるべくわしも策を練ろう」
劉璋、漢中の張魯を恐れ、劉備に討伐させようとする
そのチャンスは意外にも早くやってきました。
西暦212年、益州の上、漢中盆地に拠点を持つ五斗米道という
新興宗教の教祖張魯(ちょうろ)が勢力を伸ばし蜀の脅威になっていたのです。
劉璋が張魯に怯えている事を悟った張松はすかさず持ちかけます。
張松「何をお悩みです、こんな場合こそ同族のよしみで
荊州の劉玄徳を呼び寄せ、張魯を討伐させればよろしい」
それを聞いた劉璋は喜び、すぐにでも劉備を呼び寄せるように
張松に命じました。
(かかったァ!)
張松は内心でガッツポーズ、すぐに法正を劉備に派遣するように
劉璋を説得します。
法正、劉備に会い益州を奪い、天下を狙えと説得
劉備に会見した法正は包み隠さず言いました。
法正「はっきり申します、劉璋は乱世の君主の器ではありません。
この際、あの臆病者を利用して、あなたが蜀を獲るのです。
益州は峻厳な山に囲まれ土地は肥沃、ここで力を蓄え
曹操に対抗して、漢王朝再興を旗印に天下に号令をかけるのです。
すでに同志、張松が現地で手はずを整えて待っています
あなたがその気なら蜀を獲るのは手を返すより簡単ですぞ」
劉備は理路整然とした法正の説得をすぐに受け入れて、
長江を遡り益州に入り、涪(ふ)城で劉璋と会見して大歓迎を受けます。
劉備VS劉璋の戦いが始まる
しかし、劉璋の歓迎ムードは、いつまでたっても張魯を攻める様子がない
劉備の態度を見て、すぐに不信に変わります。
状況を察知した劉備は白水関の武将を騙して打ち破り劉璋に反旗を翻しました。
こうして、戦いが始まりますが、劉備の軍勢は食糧に不安がありました。
ここで鄭度(ていど)という男が劉璋に進み出て焦土作戦を提案します。
鄭度「劉備軍には補給がないのですから、巴西・梓潼の民を全て涪城よりも
南に移動させ食糧も家も燃やして、土壁を築いて防御しましょう。
そうして百日もすれば敵は飢えに苦しみ荊州に帰ろうとしますから、
そこを襲えば、すべて捕まえる事が出来ます」
それを聞いた劉備は、不安になり法正に大丈夫か尋ねます。
法正「どんな策であろうと君主が用いねば無意味、ご心配なく
劉璋がその策を採用する事はありませんよ」
法正の予想通り、劉璋は敵を破らずに民衆を移動させるなど聞いた事もない
と怒りだし、鄭度をクビにしてしまいました。
こうして、補給に難がある劉備は涪城以南に侵攻でき窮地を脱します。
一時は龐統を失い劣勢になるが孔明も出撃
劉備軍は破竹の快進撃を続けますが、落鳳坡で龐統(ほうとう)が戦死して、
一時期、劣勢になり諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)や
張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)を荊州から増援させてきます。
そして、成都の手前の雒(らく)城を包囲すると法正は劉璋宛てに
降伏を勧告する手紙を送りました。
法正は可能な限り、丁寧な文面で、現状に至ったのは劉璋の責任ではなく
私利私欲しか考えない無能な家臣達が、劉備の遠大な志も理解せず、
対立を煽り戦争まで進んでしまった事を強調し、
劉璋が徹底抗戦に及んでも、すでに益州の殆どは制圧され勝目はない事や
戦争が継続すると苦しむのは民百姓である事などを述べて降伏を促します。
劉璋はこの場では、この勧告を黙殺しますが結局、
成都が包囲されると法正の文面と大体同じ理由で降伏しました。
敵前逃亡をした許靖を用いるように進言
成都が劉備軍に包囲された中、許靖(きょせい)という人物が
城壁を降りて降伏しようとし失敗しました、敵前逃亡という重罪です。
しかし、すでに降伏直前だったので劉璋は殺さずそのまま生かしました。
劉備は、その事を聞いて許靖を軽蔑しました。
許靖は高名な人物でしたが、仲間を見捨てるような人間は使えないと
登用する事を拒否したのです。
ところが、それを聞いた法正は劉備に許靖を登用するように進言します。
法正「世の中には名声ばかり高く、中身のない許靖のようなヤツがいます。
しかしながら、殿は天下の人心を集める大事業を成しつつあり、
同時に、許靖の実態は広く人々の知る所ではありません。
今、殿が許靖を登用しないなら、天下の人は殿が賢臣を採用しない
暗愚な人物だと考えるようになりましょう。
逆に許靖を重く使えば、全国から蜀に人材がやってきましょう
ここは、好き嫌いを超えて、大人の対応を・・」
劉備はなるほどと思い、許靖を左将軍長史に任命します。
その後も許靖は、劉備が漢中王、蜀帝へと地位を昇るのに合わせて
累進しますが、劉備は許靖に助言を求める事はありませんでした。
法正、蜀郡大守・揚武将軍となり復讐を開始する。
劉備は法正の手柄を抜群として、諸葛亮孔明と並び自分の左右に置きます。
彼は蜀郡大守・揚武将軍として表では蜀漢の建国の準備を進め、
裏では、かつて不遇な時代に自分を嘲った人間、自分を助けた人間への
報復を進めていきます。
職権を濫用し、嘲った人間を死に追いやり、助けた人間を登用する
その強引なやり方に、法正の同僚の孔明に、法正を弾劾し
処分して欲しいと要請する人々も出現します。
孔明、法正の手柄は大きく処断できないと断る
ところが孔明は、法正を弾劾する事を拒否しました。
孔明「我が殿が公安に居た頃は、北は曹操の脅威に怯え、
南では孫権に早く南郡を返せと圧迫を受け、家庭内では、
孫権の妹の婦人が色々と策謀を弄して、ガンジガラメであった。
そこに法正が現れ、蜀を獲るプランを持ちかけたからこそ、殿は自由になれた。
法孝直は我が殿の生命の恩人だ、どうして処罰できよう」
孔明は清廉潔白な人で、不正を嫌うので私生活では、
まるで法正と性格は合いませんでした。
しかし国の為という公のレベルでは、法正の才能を認め、
性格面の欠落には妥協していたのです。
法正は、龐統(ほうとう)とも 彭羕(ほうしょう)とも仲が良いのですが
いずれも有能だが性格に一癖がある聖人君子ではない人々でした。
法正 魏の異変を見抜き、漢中を魏から奪う
西暦217年、法正は劉備に、曹操が張魯より奪った漢中を
獲る事を進言しました。
「曹操は、ただの一撃で漢中を制覇し張魯を降しましたが、
その勢いに乗じて蜀まで来る事はなく、ただ夏侯淵(かこうえん)と
張郃(ちょうこう)を置いて守備させました。
私が思うにこれは、曹操の能力の限界ではなく、
おそらく鄴(ぎょう)で曹操の地位に関する重大な問題が起きたのでしょう。
つまり、しばらく曹操は鄴を動く事は出来ません。
漢中を守る夏侯淵や張郃は取るに足らぬ連中です。
今攻めれば漢中は必ず陥落させられましょう。
そして!この漢中こそは、中原に撃って出る前線基地であり、
涼州・雍(よう)州を制覇する中継地点でもあります。
また、漢中は秦嶺山脈を前にする天然の要塞であり、
ここを死守できれば、最悪でも蜀を維持する事が出来る」
劉備は法正の進言を容れて西暦219年、漢中に攻め込みます。
法正は漢中の地形を熟知して軍略を練り、ついに大将、夏侯淵を
戦死させて漢中を奪取しました。
孔明とは陰と陽!漆黒の軍師、法正が蜀獲りに大活躍
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