荀攸(じゅんゆう)とはどんな人?曹操と生涯仲良し綺麗事を言わない荀彧の甥

2018年2月12日


 

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※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

荀攸(じゅんゆう)は、王佐の才を持つと評された荀彧(じゅんいく)

甥にあたる人物です。※ただし、年齢は荀攸の方が上

 

元々、荀氏は性悪説で知られる荀子(じゅんし)の子孫でしたが、

後漢の荀淑(じゅんしゅく)の時、外戚として権勢を振るった梁冀(りょうき)

処罰を恐れず、遠慮のない批判を加え清廉を貫いたとして世の賞賛を集めました。

荀淑の孫が清廉で知られる荀彧であり、荀攸は荀淑の兄の子の子孫です。

そのような出自の差が二人の対照的な生き方に反映されます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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若い頃に孤児になり叔父に育てられ磨かれた観察眼

 

荀攸は字を公達(こうたつ)と言います。

軍師の産地、豫州潁川郡(よしゅう・えいせんぐん)潁陰県の出身で、

祖父の荀曇(じゅんどん)は広陵太守を務め、父の荀彝(じゅんい)は

州の従事でしたが、荀攸が子供の頃に若くして亡くなっています。

 

当時の慣例から、恐らく少年荀攸は叔父の荀衢(じゅんく)に養育されたのでしょう。

同族とはいえ、他人に育てられる経験の中で荀攸は注意深い観察眼を

身に着けていく事になります。

 



酒に酔った叔父の失敗を覆い隠し一目置かれる

 

荀攸が8歳の時です、叔父の荀衢が酔っ払い、

誤って荀攸の耳を傷つけるという事件が起こります。

当時は儒教全盛の時代であり、親からもらった体に傷をつけるのは

大変なタブーなのですが、荀攸は叔父に後悔の念を抱かせない為に

いつも叔父の前では耳を隠して遊びまわっていたようです。

後になり、その事実を知った荀衢は、大いに驚くと同時に、

子供らしからぬ荀攸の気遣いに感謝し、一目置くようになります。

 

また、13歳の時、元下役の張権(ちょうけん)という男が荀攸を尋ね、

祖父の荀曇の墓守をしたいと申し出た事がありました。

張権の挙動に不審さを感じた荀攸は叔父に報告、

荀衢が調べてみると、張権は他所の土地で殺人を犯しており、

墓守をして罪を逃れようとしている事が分かったそうです。

 

このように、荀攸は幼少期から人間の観察眼に優れていました。

 

孝廉に推され、荀彧や鐘繇、郭図と共に登用される

 

荀攸は、やがて、潁川太守の陰修(いんしゅう)によって中央に推挙されます。

この時には、同時に叔父にあたる荀彧や鐘繇(しょうよう)

郭図(かくと)も推挙されました。

 

時代は外戚である何進(かしん)が大将軍であった時、何進は自分のブレーンとして

エリート官僚を20名選抜しますが、荀攸はその中に入っていました。

彼は、何進の求めで黄門侍郎(こうもんじろう)になります。

 

こちらは、皇帝の側近くに仕えて、その諮問に答える地位です。

しかし、やがて何進が殺されると、混乱の中で董卓(とうたく)が洛陽を制圧、

その専横に憤った荀攸は、議郎の鄭泰(ていたい)、何顒(かぎょう)

侍中の种輯(ちゅうい)、越騎校尉の伍瓊(ごけい)と図って

董卓を暗殺しようとしますが、計画がバレて何顒と荀攸は投獄されました。

 

何顒は絶望し自殺しましたが、荀攸は泰然自若としており、

やがて董卓が殺されたので免れたとも、魏書では、

人を遣わして董卓を説得したので罪を赦されたとも言われます。

 

後漢を見限った?益州に行こうとしていた荀攸

 

董卓が死んだ後、荀攸は官職を捨てています。

さらに推挙されて、任城(じんじょう)相に任命されますが行きませんでした。

逆に荀攸は、漢中と蜀が人民も多く繁栄しており、守るのにも便利なので

蜀郡太守を希望し要望は通りますが、蜀は劉焉(りゅうえん)が入って、

漢中の張魯(ちょうろ)をけしかけて、長安に続く桟道を焼き落としてしまい

荀攸は赴任する事が出来ず、荊州で劉表(りゅうひょう)に引き留められます。

 

この動きを見ると、どうやら荀攸は後漢を見限り、

乱世の到来を予感し、覇者の軍師として身を立てようとしていたようです。

 

もし、荀攸の蜀行きのタイミングが早ければ、もしかすると、

劉焉をアシストして、蜀は劉備が入れないくらいに強化され

早々と三国の一角に成長するか、そうでないなら、

曹操(そうそう)から荀彧を通じて降伏を勧告され時勢を読んで

あっさり降伏するか、どっちかになりそうです。

 

荀彧から熱くてウザいスカウトの手紙がくる

 

西暦195年、許で献帝(けんてい)を擁した曹操が

荀彧の進言に従い荀攸にスカウトの手紙を出します。

 

「今、まさに天下は大乱であり、

賢者が心を悩まし治世を生み出すべき時です。

それが、荀公達ともあろうものが、漢と蜀の間で

事態を静観するだけで動きもしないとは!」

 

このような叱りつけるような暑苦しい手紙を

世慣れた曹操が出すとは思えないので、

恐らく荀彧が曹操名義で書いた手紙でしょう。

いかにも正統派で大義を追及する荀彧らしい手紙です。

 

荀攸も、何も出来ずに荊州でくすぶるよりはと招聘に応じます。

曹操は荀攸と語らい、その智謀に感心し、この人があれば天下の事に

憂いはなしとまでベタ褒めしました。

 

張繍との戦い、曹操は荀攸の助言を無視し敗れる

 

198年、荀攸は曹操に従い、張繍(ちょうしゅう)討伐に従軍します。

曹昂(そうこう)典韋(てんい)の仇討ちに逸る曹操に対し荀攸は言います。

 

「見ると、張繍と劉表はお互いを補いあって敵を牽制しています。

ここで、殿がしゃかりきに張繍を攻めると、劉表は次は自分と思い、

積極的に張繍を援護して、倒すのが難しくなるでしょう。

ここは、緩く攻撃し、劉表に危機意識を与えず両者を分断しましょう」

 

しかし、曹操は荀攸の意見を取り入れず、全力で張繍を攻めます。

案の定、張繍は劉表を頼り、曹操の勢いを恐れた劉表は必死に援護、

曹操軍は物量で不利になり追い込まれました。

 

曹操は何とか奇襲作戦で窮地を脱しますが、

「君の意見を無視してひどい目にあった、すまん」と苦笑いします。

 

力戦して呂布に止めを刺す事を進言

 

曹操は、宛から馬を返して宿敵の呂布(りょふ)と戦います。

これにも荀攸は参加していますが、呂布は不利と分かると下邳に籠城し

戦線は膠着状態になり、曹操軍も疲弊しました。

そこで、曹操は弱気になり、一度本拠地に戻り体制を整えようとしますが

荀攸と郭嘉(かくか)が進言しました。

 

「ここで戻ってはいけません、呂布は善く守っているとはいえ、

連戦連敗で士気が低下しており、軍師陳宮(ちんきゅう)は智者ではありますが

動きが遅く、突破口は見いだせていません。

つまり、呂布はジリ貧であり、ただ籠城して持久しているだけ、

苦しいですが、もう一押しすれば必ず勝てましょう」

 

曹操は進言を聞き入れ、河を決壊させて下邳城を水攻めし、

ついに呂布を生け捕りにしました。

 

官渡の戦いでは神進言を連発!

 

200年に勃発した官渡の戦いでは荀攸の神進言が連続で炸裂します。

数では圧倒的に劣る曹操ですが、いきなり防戦に入るのではなく、

白馬城の劉延(りゅうえん)を救援する為に、積極的に北上して、

袁紹軍の郭図(かくと)や顔良(がんりょう)淳于瓊(じゅんうけい)の軍と対峙します。

 

荀攸は、まず多勢の袁紹軍を分散する為に、

曹操軍を二手に分け于禁(うきん)楽進(がくしん)の軍を分離させて渡河させます。

陽動に引っ掛かった袁紹軍では、顔良を残して、郭図と淳于瓊が、

楽進と于禁を追いかけ、曹操は単細胞の顔良に張遼(ちょうりょう)

関羽(かんう)をぶつけ、関羽が顔良を奇襲で討ち取りました。

 

こうして、白馬城を解放した曹操は城を放棄し住民を率いて南下します。

雪辱に燃える袁紹は、今度は文醜(ぶんしゅう)劉備(りゅうび)

南下する曹操軍の背後を攻撃させます。

曹操の幕僚からは悲鳴が上がり、一刻も早く自陣に籠りましょうと

野戦陣地の官渡へ向かうように進言しますが、曹操は笑いました。

 

「これは袁紹めを破る秘策だ、どうして急いで退却できよう?」

 

こうして、曹操は荀攸と目くばせして笑いました。

やがて、囮の補給部隊が明らかに曹操軍から遅れ始めます。

顔良に勝る脳筋の猛将、文醜は、、

 

「プピプー!やたー!!補給部隊発見!今夜はハンバーグだ!」

 

とばかりに何も考えず、隊列を崩して補給部隊に突撃しました。

荀攸の狙いはそこでした、味方から孤立した文醜を狙い

歩騎を繰り出し、混戦の中で文醜は殺害されます。

 

兵と物資で優勢だった余裕の袁紹は、二度も曹操に敗れてしまい

大きく士気を損ねてしまったのです。

 

袁紹軍の補給を妨害し烏巣焼き討ちの切っ掛けを造る

 

その後、両軍は官渡城に籠って籠城する曹操と包囲する袁紹で

完全なにらみ合いに突入し、籠城戦は五十日にも及び物量においても

劣勢な曹操は深刻な食糧難に直面します。

 

ここで荀攸は、袁紹軍の補給部隊の韓シュンが精鋭だが

敵を侮る性格であることを利用し、徐晃(じょこう)と史渙(しかん)に

攻撃させるように進言します

 

曹操は、進言を許可、こうして、韓シュンは徐晃と史渙に敗れ、

車数千台分の食糧を燃やされました。

この事は袁紹に衝撃を与え、各地に食糧を分散させずに

烏巣(うそう)に一括して管理するように方針を転換させます。

 

袁紹の方針転換は、後に袁紹配下の許攸(きょゆう)が投降し、

曹操陣営に烏巣の場所を漏らす事に繋がり

やがて、曹操軍奇跡の大逆転へと進んでいくのです。

 

袁譚との和睦を支持し、袁家滅亡への道筋をつける

 

官渡の戦いに敗れた袁紹は昔日の勢力を失い2年後には病死します。

曹操は、郭嘉の進言を容れて、袁家の攻撃を見合わせると、

袁家では、袁紹の後継者の地位を巡り、長子の袁譚(えんたん)

末子の袁尚(えんしょう)がお家騒動を開始しました。

 

この頃、曹操は劉表を攻めていましたが、そこに袁尚に負けて、

滅亡寸前の袁譚が和睦を求めてきました。

曹操の幕僚の大半は、滅亡寸前の袁譚など放置して、

精強な劉表を先に倒しましょうと進言しますが、荀攸は違いました。

 

「劉表は精兵10万を持っていても中原を制覇する意欲に乏しく

放置しておいても、わが軍を脅かす事などありません。

しかし、袁家は、袁紹が善政を敷いて、それを慕う民は多く、

また、異民族の烏桓も、袁家には忠誠を誓っております。

ここで、袁譚が滅び、袁家が袁尚で一本化されると再び強大になり

官渡の勝利が水泡に帰す事になりましょう」

 

曹操は荀攸の進言を受け入れて、劉表を攻める事を止めて

袁譚と和睦して、その支援を行い袁尚を攻撃します。

劉表は曹操の攻撃が止んだので、ああ良かったと安心し、

曹操の背後を突くことも、袁尚と連携する事もありませんでした。

 

荀攸の思惑通り、内輪もめをした袁尚は、鄴を失い遼東に逃げ

残った袁譚も南皮で曹操に滅ぼされたのです。

 

見た目も叔父の荀彧とは対照的な荀攸

 

袁家を滅ぼした事で、華北の覇権はほとんど曹操の手中に入ります。

荀攸は曹操の遠征にはほとんど従い、その進言には外れが無く

曹操が荀攸を信頼する事は、荀彧や郭嘉にも劣りませんでした。

後継者となった曹丕(そうひ)に対して曹操は、荀攸は人生の師だから、

必ず尊敬し、礼を絶やしてはならないと命じています。

 

そんな荀攸ですが、親戚で外見も立派な荀彧とは印象がまるで違いました。

彼は、大人しくぼんやりし愚か者のようで智謀があるようには見えず、

いつもオドオドした態度は臆病者に似て、弱々しい印象でした。

ところが、その内側は徹底した秘密主義で、智謀は湧くがごとし、

善を潰す事なく、百姓に負担を与えませんでした。

 

力あるものが天下を取るべき!曹魏王朝を望んだ荀攸

 

また、後漢王朝に対するスタンスも荀彧とは対照的であり、

荀彧が漢朝の臣という正統派の態度を終始持ち、曹魏王朝の建国にも

慎重であったのに対し、早くから後漢を見限った荀攸は曹魏王朝の

建国にも前向きで積極的でした。

 

 

 

荀攸(じゅんゆう)とはどんな人?曹操と生涯仲良し綺麗事を言わない荀彧の甥

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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