【第三次濡須口の戦い】曹丕の火事場泥棒から起きた最期の激戦


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曹丕

 

第三次濡須口(じゅしゅこう)の戦いは、西暦222年から223年にかけて行われた戦いです。

ここでは、魏は代替わりし曹丕(そうひ)が総大将として親征し、孫権(そんけん)と激しい戦いを

繰り広げていく事になります。

この戦いも総力戦になると同時に曹丕の最初の負け戦になりました。

 

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夷陵の戦いで疲労した呉に曹丕が襲いかかる

呉に曹丕が襲いかかる

 

戦いの発端は、呉と蜀の間で行われた夷陵(いりょう)の戦いです。

孫権は、関羽(かんう)尊大(そんだい)な態度に嫌気が差すと同時に、対蜀融和論者の魯粛(ろしゅく)が死に

対蜀積極論者の呂蒙(りょもう)が都督になった事で、蜀との手切れを考えます。

そして、魏とは秘密同盟を締結して、関羽が魏領に進撃したのを幸いに

魏と呼応して挟撃し関羽を殺害、荊州南郡を魏と分割する事になります。

 

しかし劉備(りゅうび)の義弟を殺してただで済むわけもなく、激怒した劉備は孫権の弁明を聞かず、

西暦222年に夷陵の戦いを起こし呉の領地に侵攻しました。

孫権は、陸遜(りくそん)を総大将にし、陸遜は退却戦を展開して蜀軍を江陵までおびき出し)

火計を用いて、五十以上の蜀軍の陣営を焼き払い劉備を敗走させます。

陸遜

 

これを見て、曹丕は呉蜀が食い合っている今こそ、呉蜀併呑のチャンスと

呉軍の援軍を申し出て南下を開始します。

多くの呉将は魏を信じて、白帝城の劉備を攻撃せよと息巻きますが、

陸遜は、曹丕の援軍は嘘で実際は呉を攻めるつもりだと見抜いて撤退しました。

孫権は陸遜の意見を信じ、劉備からの和睦の申し出に従い魏に備えます。

かくして、第三次濡須口の戦いが開始されました。

 


 

曹丕、孫権が人質を出さない事を理由に宣戦布告

曹丕、孫権が人質を出さない事を理由に宣戦布告

 

孫権は禅譲(ぜんじょう)により漢を亡ぼした曹丕が皇帝になると臣従を申し出て呉王になりますが

本気ではなく、曹丕に人質として皇太子の孫登(そんとう)を洛陽に送るように命じられると

一度は承知しておきながら、まだ幼いだのなんだの理由をつけて引き延ばし、

ついには催促(さいそく)を無視しました。

 

そこで曹丕は、これを理由に呉と蜀が大戦で疲労した隙をついて討伐軍を南下させます。

西暦222年の11月、許昌を出発した曹丕は(えん)に本陣を置き、

曹休(そうきゅう)張遼(ちょうりょう)臧覇(ぞうは)の軍を洞口(どうこう)に、曹仁(そうじん)の軍勢を濡須に、曹真(そうしん)夏侯尚(かこうしょう)

張郃(ちょうこう)徐晃(じょこう)の軍勢を江陵にそれぞれ派遣して三方面作戦を取ります。

 

これを受けて、孫権は呂範(りょはん)の軍勢を洞口に派遣し、濡須塢(じゅすう)では朱桓(しゅかん)が防衛、

江陵には朱然(しゅぜん)が進軍して、孫盛(そんせい)が援軍に向かいました。

 

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江陵の戦い

江陵の戦いの地図

注:地図はかなりいい加減です。

 

江陵の戦いでは、曹真と夏侯尚が朱然が守る城を包囲しますが、

朱然は魏軍の陣を二カ所破り内通者を処刑する事で江陵を守り通します。

 

しかし、援軍で向かってきた張郃(ちょうこう)は別動隊を指揮して、孫盛の救援軍を撃破

孫盛の陣営があった長江の中州を占拠して、朱然は孤立無援になりました。

これに合わせて、城内では疫病(えきびょう)や、内応騒ぎが起きますが、朱然はこれらを治めて

孤軍奮闘(こぐんふんとう)、江陵城は落ちませんでした。

 

そこで、夏侯尚は、中州に陣地を設けて浮橋を造りました。

孫盛に代わり、援軍に向かった諸葛瑾(しょかつきん)潘璋(はんしょう)が江陵に到着し、

諸葛瑾は中州を占領しますが、夏侯尚は火計で諸葛瑾を撃破します。

諸葛瑾

 

気候が温暖になり長江の水量が増えると、潘璋は長江の上流の水上に砦を築き

諸葛瑾はこれを拠点として二方面から夏侯尚の浮橋を攻撃します。

曹丕についてきていた軍師の董昭(とうしょう)は、諸葛瑾が二方向から攻撃をかけているのに

夏侯尚の浮橋は一本しかなく時期的に長江の水量が急激に上昇する事を懸念、

退却を進言したので、曹丕は勅命を下して夏侯尚を退却させます。

ここに諸葛瑾は攻撃を仕掛けますが、なんとか退却に成功しました。


 

濡須口の戦い

濡須口の戦いの地図

注:地図はかなりいい加減です

 

濡須口における曹仁と朱桓(しゅかん)の対峙は長期化しました。

223年に入ると、曹仁は兵を分散させ、さらに下流の濡須と洞口の中間地点にある

羨渓(せんけい)を攻撃すると情報を流します。

この情報を信じて朱桓は5000の兵を濡須において、残りは羨渓に送りますが、

これは濡須塢の守りを手薄にするための曹仁の虚報でした。

 

勝機と見た曹仁は数万の兵を率いて中州に上陸しました。

計られたと悟った朱桓ですが、恐れる事はありませんでした。

曹仁

 

「戦争は兵力ではなく司令官の質で決まる、俺と曹丕では俺の方が優れているし

まして、その使いっ走りの曹仁など相手にもならん。

さらに曹仁の軍勢は遠征で疲れているし戦場は我が軍の領域で不慣れだ。

逆に、こっちはホームグラウンドなのだから、決して不利ではない」

 

そして、曹仁を油断させる為に、敢えて旗指物を減らして、

陣太鼓の音を小さくして見せて、濡須塢が弱っているように見せかけます。

曹仁は、この報告を聞いて、総攻撃を決意しました。

223年、曹仁は後方で指揮を執り、息子の曹泰(そうたい)に濡須塢を攻撃させ、

将軍の常雕(じょうちょう)諸葛虔(しょかつけん)王双(おうそう)を指揮させて複数のルートから中州を攻撃させました。

 

これに対して朱桓は駱統(らくとう)厳圭(げんけい)らの諸軍に常雕軍の軍船を奪わせて、

さらに常雕を攻撃させます。

朱桓自身は軍を率いて曹泰と対峙し、火攻めをしてこれを退却させます。

これにより、常雕は戦死、王双は朱桓軍の捕虜となり、曹仁は撤退し、

濡須口での戦いは、朱桓の勝利で終ります。


  

 

 

洞口の戦い

洞口の戦い

 

洞口には、曹休、張遼、臧覇の精鋭が派遣されました。

これに対して、呂範は五軍(2~3万人)の船団を率い

徐盛(じょせい)全琮(ぜんそう)孫韶(そんいん)等を配下にして迎え撃ちます。

しかし、222年の11月、おりからの突風が夜半に吹き荒れ、

船団は北岸の曹操軍の陣営に流されてしまいました。

 

曹休は勝機を逃さず、呂範の軍勢に襲いかかり数千人を溺死、戦死させました。

おまけに呂範配下の孫朗(そんろう)が、この時に呂範の命令に背いて火計を使い

逆に自軍の軍資材を延焼させてしまう致命的なミスを侵します。

立て直す術がなくなった呂範は敗残兵をまとめて後退しました。

 

呉軍の弱体化を受けて曹休は臧覇に快速船500と兵力1万を与え

徐盛の軍勢に攻撃を仕掛けます。

少数の徐盛は損害を出しながら防衛し壊滅しませんでした。

臧覇は不利になり、退却に転じますが徐盛と全琮は追撃して撃破

尹魯(いんろ)を戦死させています。

曹休は敗戦を受けて、退却していきました。

 

蘄春反乱

蘄春反乱のモブ

 

蘄春(きんしゅん)では、元、呉将の晋宗(しんそう)という人物が元の太守を殺害して兵を挙げます。

しかし、孫権は、当時、洞口の曹休を相手するのに忙しく、

暫くは反乱を放置しておきました。

曹丕の軍勢が撤退して脅威が去ると、孫権は賀斉(がさい)麋芳(びほう)を呼び出して攻撃させ

223年の6月に晋宗は生け捕りにされて反乱は終わりました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

この第三次濡須口の戦いで、呉と魏の同盟関係は完全に切れてしまいます。

孫権は、蜀政権の主導権を握った諸葛亮(しょかつりょう)と再び同盟を結び、

ともに魏を不倶戴天(ふぐたいてん)の敵とする事で話をまとめるのです。

そして、この枠組みは263年に蜀が滅亡するまで継続する事になりました。

 

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