12月11日にいよいよ上映された『新解釈・三國志』皆さんは、もう御覧になられたでしょうか?
今回の映画で三国志に興味が出て、調べてみようと思った方も多いかと思います。
コメディ要素満載で笑えた『新解釈・三國志』ですが、2時間という尺の中で三国志の中盤の赤壁の戦いまでやったので、三国志の主役である魏、呉、蜀については本当に簡単にしか触れていない状態でした。
そこで、はじめての三国志では、映画に登場する魏・呉・蜀のそれぞれの国の成り立ちの違いについてザックリ解説しましょう。
この記事の目次
魏呉蜀って何?ザックリ解答
魏、呉、蜀とは1800年前の中国に存在した国の名前です。
大体、中国全土の70%を魏が、20%を呉が10%を蜀が持っていると思えば間違いないでしょう。
魏は曹操が、呉は孫権が、蜀は劉備がボスだと思って下さい。
黄巾賊の反乱が起きた後、中国は群雄割拠となり、10以上の勢力が各地に出現して争いましたが、その中から、曹操、孫権、劉備が抜け出して、西暦220年頃には、おおよそ3ヶ国にまとまります。
結局、この3国から天下統一を成し遂げる勢力は出現せず、魏を乗っ取った司馬氏が蜀と呉を滅ぼし西暦280年に天下を統一します。
以上、ザックリと魏呉蜀について解説しました。
魏とはどんな王朝?
魏は、映画では小栗旬が扮した曹操が建国した国です。大金持ちながら宦官の孫として蔑まれた曹操ですが、小男ながら知恵が回り時勢を読む力に優れ、反董卓連合軍の解散後、中国14州の1つ兗州を支配。
その後、青州黄巾賊を下して配下に加え、長安から逃れて来た後漢皇帝を保護、その威光を最大限に利用し、
袁術や袁紹、呂布、というライバルを次々と打ち倒していきます。
そして中国14州の9州を支配した所で、赤壁の戦いで手痛い敗北を喫しました。
魏の領地
魏の領地は三国が成立した西暦229年時点で
1.幽州
2.并州
3.青州
4.冀州
5.豫州
6.雍州
7.司隷
8.兗州
9.荊州(北半分)
このように魏は、中国14州の2/3を領有し圧倒的な国力を持ちました。
人口は443万人、役人は6万~14万人で、兵力は40万~50万人です。魏の兵力と人口は、呉と蜀を合わせたよりも大きく、元々、中国文明が発展した地域を支配していたので、文化の水準も高い国でした。
結局、曹操は存命中に天下統一が出来ず、孫の時代に、家臣の司馬氏に国を乗っ取られ晋が建国されますが、晋は魏の国力が母体なので、天下統一に魏が果たして役割は大きいと言えます。
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魏の有名な武将・軍師
呉とはどんな王朝?
呉は、孫権の兄である孫策が建国の礎になりました。元々は、孫策や孫権の父である孫堅が袁術という群雄の配下として活躍していましたが、孫堅の死後、息子の孫策は袁術からの自立を図り揚州へと転戦していき、周辺の豪族を滅ぼしたり、味方につけたりして勢力を拡大していきます。
しかし、孫策は強引な領土拡大で土地の豪族の恨みを買って襲撃され、矢傷が元で急死。その後は、『新解釈・三國志』でも登場した孫権が、孫策が残した家臣を引き継いで国をまとめていきます。
そうして揚州の支配を固めた頃に、曹操が降伏勧告を出してきて、呉は降伏派と抗戦派に別れて争いますが、孫権は劉備と共に戦う道を選びました。
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呉の領地
呉の領地は、三国が鼎立した229年時点で
①揚州
②交州
③荊州(南半分)
この3州で、魏に次いで2番目の勢力を誇ります。
人口は230万人、役人は3万2千人、兵士は23万人と記録されています。
呉は長江を挟んでいる性質上、水軍が発展していて魏は侵略するのに、どうしても水戦を挑む事になりましたが、北方の魏の兵士は、船に慣れていませんでした。『新解釈・三國志』でも、水に慣れていない魏軍に疫病が発生した描写がありますが、疫病自体は史実で、それらもあり赤壁で曹操を破り存続します。
しかし、それで安心したのか孫権は次第にボンクラ化していき、晩年は後継者争いで国力も人材も失われ、魏を継いだ晋により西暦280年に滅ぼされました。これにより、西暦184年の黄巾の乱を始まりとする三国の動乱は96年で統一されるのです。
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