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この記事の目次
呉の有名な武将・軍師
歩隲
蜀とはどんな王朝?
蜀は、『新解釈・三國志』の主人公、大泉洋が扮する劉備が赤壁の戦いのざっくり6年後に中国14州の1州、益州を手に入れて建国される国です。劉備は漢王室の末裔を名乗ったので、蜀は漢の後継王朝を名乗り蜀漢とも言います。
元々蜀は、劉備と同じ劉姓の劉璋が支配していましたが、劉璋は近くの漢中にいる張魯を恐れていて、戦争に慣れている劉備に兵力を貸して張魯を討たせましょうという部下の進言に乗り劉備を呼び寄せてしまい、結局西暦214年劉備に国を盗られてしまいました。
その頃までに、劉備は赤壁の戦いのどさくさで、荊州の一部に領地を得たのですが、支配を任された関羽が単独で魏に攻め込み、裏で手を結んでいた曹操と孫権に挟み撃ちにあい討ち死にし、荊州の領地も失います。
おまけに、劉備は関羽の弔い合戦をすると言い出して諸葛孔明の止めるのも聴かずに出撃。
呉の名将の陸遜に火攻めで負けて退却し西暦223年に死去します。
その前に、張飛もしょうもない理由で部下に殺されており、諸葛孔明は劉備の遺言を受けて、劉備の息子の劉禅を守り立てて戦う事になります。
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蜀の領地
蜀の領地は益州のみで、3国で一番国力が弱い状態です。人口は94万人、役人は4万人、兵力は10万2千人と、これまた三国最弱でした。
これだけ見ると、呉より活躍しないように見える蜀ですが、実際には諸葛孔明が漢を滅ぼした魏を討伐するとして、乏しい国力をやりくりして5回に渡る北伐、魏討伐作戦を繰り広げ、魏の曹真や司馬懿のような名将と激闘を繰り広げます。
しかし、国力の差はいかんともしがたく、西暦234年に諸葛孔明は五丈原で死去。孔明死後の蜀では、2代皇帝劉禅がボンクラ化していき、家臣同士の派閥争いも激しくなり弱い国力はさらに弱体化。
孔明の後を継いだ姜維の北伐も成果が上がらず、263年に晋に滅ぼされました。
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蜀の有名な武将・軍師
蔣琬
三国志入門者向けのまとめ
以上、『新解釈・三國志』で少ししか触れられていない三国について、ザックリではありますが、解説しました。
こうしてみると、三国では魏が圧倒的に強く、これでどうして呉と蜀が滅ぼせないのか不思議になりますが、事実は小説より奇なりで、結局、三国は誰も天下を統一できないで終ってしまうのです。そこもまた、歴史の面白さというものですね。
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