三国志の一大勢力である魏には数多くの文官武将がいますがその中でも長きに渡って数多くの功を立てた武将と言えば張遼が挙げられます。
張遼は丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操に降り配下となりますが、その後曹丕の代にも変わらず仕え続け魏を支えます。魏に対して多大な功績を残した張遼は自身だけでなく自身の母にも波及することになります。今回はそんな張遼の功績とその影響力を見ていきます。
曹操に仕えるまでは主が変わり続けた張遼
張遼は前漢の武帝に仕えた聶壱の子孫にあたる人物です。聶壱が当時漢と友好関係にあった匈奴との交易を利用し軍臣単于を打ち取る計画を立てた(結果は失敗)ことから単于の一族に恨まれたため張と改名したとされています。
張遼自身は若くして郡吏となりその勇猛さを当時并州刺史の丁原に見出され配下となりますが、同じく丁原に仕えていた呂布が董卓に寝返り丁原を殺害。張遼自身も董卓の配下となります。
その後朝廷を牛耳っていた董卓が王允とまたも寝返った呂布に殺害されると張遼は呂布に仕えます。しばらくは呂布と行動を共に各地を転々としますが、下邳で曹操に敗れるとついに運命の人曹操に仕えることになります。
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鬼神と化した合肥での戦い
曹操に仕えて以降張遼は袁紹との官渡の戦いの前戦である白馬の戦いで、当時投降していた関羽と共に顔良を討ったり、袁紹死後その息子である袁譚・袁尚との戦いや荊州へと赴任など数々の功績を立てますが、張遼の功績で最も大きいものはやはり合肥の戦いが挙げられます。
赤壁の戦い後曹操は勢いを失い逆に孫権は勢いづいていました。そんな中張遼は李典や楽進と共に呉との境である合肥に赴任していましたが、ある日孫権自らが10万の大軍を率いて合肥に攻め込んできました。
この時の魏軍の兵力はわずか7000人程度であり当時曹操は漢中の張魯を討伐すべく遠征をしている最中でした。さらに李典や楽進と張遼は不仲であるという懸念点もあり絶体絶命の危機的状況でした。
しかしこんな時に私的な争いをしてはならないと三人で話し合い協力してこの事態にあたることとします。曹操から届いた書状に書かれていた「張遼と李典は出陣して迎撃、楽進は城を守れ」
との命に従い出陣前の夜中に兵士を800名募り牛を殺して将兵に振舞い士気を高めました。
呉軍全軍が集合する前に張遼は自ら先鋒となり数十人の兵と2人の将を斬り孫権へと迫る勢いでした。孫権は出鼻をくじかれ丘の上に引きますが張遼は
「そこの短足の男!丘を降りて戦え」と一喝します(この時張遼は孫権の風貌を知りませんでした)。
孫権はそれでも応じませんでしたが張遼の率いる兵が少数であることを知ると大軍で包囲します。張遼は左右二手から包囲を突破すると見せかけ包囲の中央から突破します。
張遼は包囲の突破に成功しますが付いてこられたのはわずか数十人であり、残りは包囲の中に取り残されてしまいます。
残された兵が「将軍は我々を見捨てるのですか!」と叫ぶと張遼は再度包囲の中に飛び込み救出し三度包囲を突破します。
この光景をみた孫権率いる呉軍は意気消沈しそれ以上張遼を追撃することはしませんでした。その後合肥城は包囲されますが呉軍に疫病が蔓延したため、孫権は撤退したことにより事なきを得ます。張遼のすさまじい武、仲間を見捨てない義により味方を鼓舞し敵は恐れました。
その結果7000人の兵力で10万もの大軍を退けたことは後世に語られる張遼の見せ場となり、当時もこのことは広く伝わり呉の地においては泣き止まない子に対して、
「張遼が来るぞ!」というとピタリと泣き止むといわれるほど恐れられる対象となりました。
泣く子も黙る張遼の親孝行
敵軍から恐れられ特に呉では張遼が来るぞ!と子供に言うと泣き止んでしまうほどとされていた張遼ですが、魏軍においては非常に頼もしい存在であったことは言うまでもありません。曹操からも厚遇され合肥の戦い以降征東将軍に任じられます。
孫権討伐時に合肥を訪れた曹操は当時張遼が戦った場所を一つ一つ見に行き深く感心しています。さらに曹操の死後その息子である曹丕が魏王の地位を継承すると張遼は夏侯惇の後任として前将軍に昇進させ、帛千疋と穀一万石を与えられ張遼の兄の張汎と一子は列侯に封じられます。
そして曹丕は張遼の母にも張遼同様の厚遇を与えます。221年に張遼のために邸宅が建造されるとそれとは別に張遼の母のためにも宮殿が建てられます。
また再度孫権が攻めてきた際には張遼と共に駐屯地へ赴く母のために曹丕の勅命にて輿車を支給し、道中兵馬をつけて護衛にあたらせさらに駐屯地に到着すると張遼の配下であった武将たちを道の両側に並ばせ出迎えさせるほどでした。
この光景を見ていた見物人たちは大変名誉なことだと感心したそうです。これほどの厚遇を受けた母のさぞ張遼のことを誇りに思い自慢の息子であると感じていることでしょう。
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まとめ
張遼は名だたる魏の武将の中でも多くの功を立て現代でも人気のある武将の一人です。味方にいれば心強いですが敵となると非常に恐ろしい存在であり「泣く子も黙る」の語源ともいわれています。
三国志ライターAlst49の独り言
張遼は曹操だけでなく曹丕からも重用されその待遇は手厚く母にまでも宮殿を建てるほどでした。そんな張遼が亡くなった際には曹丕は涙を流し悔やんだほどです。これほどの人物ですので現代においても人気であるのは必然ではないでしょうか。
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