魏の名将といえばまずその名が挙がるのが張遼です。しかし、この張遼という武将はしばしば、『三国志演義』の被害者と呼ばれることがあります。なぜなら、張遼は「演義」の記述でその功績が過小評価されているという稀有な武将だからです。
そこで、今回は「演義」と「正史」それぞれの張遼像を比べてみたいと思います。
「三国志演義」と「正史三国志」
まず、話を進めていく前提として、『正史三国志』と『三国志演義』についてその違いを押さえておきたいと思います。
『正史三国志』は、晋代に陳寿によって書かれた歴史書です。著者の陳寿は蜀と晋に仕えた官僚であり、『正史三国志』は国家による公式な歴史書と言えるでしょう。ですので、晋の前身である魏を正統な王朝としており、客観的な記述を中心に書かれています。
一方、『三国志演義』は明の時代に羅貫中によって書かれたとされる物語であり、史実をベースとしつつも、劉備や諸葛亮孔明率いる蜀を善玉、曹操率いる魏を悪玉とする勧善懲悪の要素があり、さらに物語ということもあって、登場人物の活躍などは多分に誇張されて描かれています。
例えば、呂布が虎牢関の戦いで劉備・関羽・張飛の3人と同時に戦う場面や、長坂の戦いで趙雲が劉備の子を抱いて百万の敵軍の中を駆け抜ける場面などは、『三国志演義』特有の創作となっています。
つまり、『三国志演義』は創作をふんだんに含んだ物語ですので、その登場人物の活躍は『正史三国志』と比べて大いに脚色されて描かれるのが普通です。
しかし、この記事で扱う張遼については、なんと『三国志演義』よりも『正史三国志』の方がその活躍を鮮烈に描いており、『三国志演義』では張遼の功績が過小評価されているのです。
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『三国志演義』の張遼
『三国志演義』において、張遼は劉備の義弟・関羽との関係を中心に描かれています。
『三国志演義』によれば、張遼はもともと呂布の部下である「八健将」の一人であり、呂布が曹操に敗れた際にともに捕らえられます。その後、覚悟を決めた張遼は曹操を罵倒し、大人しく斬られようとしますが、これを救ったのが関羽でした。
関羽は張遼の助命を請い、曹操はこれを受け入れたため、張遼は命拾いして曹操の配下となります。これをきっかけに、張遼と関羽の間には男同士の友情が芽生えたのでした。
その後、劉備が曹操に敗れ、関羽が曹操の大軍に包囲されたとき、関羽は死を覚悟しました。その時に関羽の目の前に現れたのが張遼でした。張遼は関羽を懸命に説得し、曹操に降伏させます。
これによって関羽は生きながらえることができ、張遼は関羽に恩を返したという形です。このように、『三国志演義』の張遼はあくまでも、漢気溢れる武将としての関羽を引き立てるための引き立て役に過ぎないのです。
その後の呉との戦いの中での張遼の活躍はあまり描かれず、せいぜい呉軍の計略を逆手に取って太史慈を討ち取ったくらいです。
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『正史三国志』の張遼
一方、『正史三国志』の張遼は全く異なります。『正史三国志』でも関羽と親しい付き合いがあったことは示唆されていますが、先程のような美しい男同士の友情はもちろん創作です。
『正史三国志』では、張遼の並外れた武功が客観的に淡々と記されているだけに、その凄みがひしひしと伝わってきます。
『正史三国志』によれば、張遼は元々呂布の配下にいましたが、呂布が敗死した後に曹操に従い、すぐに将に取り立てられています。
そして、官との戦いや河北平定戦、赤壁の戦いといった曹操の主な戦いにはほぼ全て参加し、特に袁紹との戦いでは、曹操に一時的に降った関羽と共に敵の猛将である顔良を破る活躍をみせています。
そして、赤壁の戦いの後、張遼は呉との国境に近い合肥に駐屯し、魏と呉との国境を守る任務に就きます。魏は赤壁に敗れたとはいえ、圧倒的な国力があったことから、呉もなかなか魏を攻めることはしませんでしたが、215年(建安20年)に曹操が西方に遠征に出かけた隙をつく形で、呉の孫権は大軍で合肥を攻めます。
張遼は楽進・李典らとともにわずかな兵で呉の大軍に立ち向かい、張遼は果敢にも城から打って出て呉の大軍を散々攪乱します。
張遼の鬼神のごとき活躍に戦意をくじかれ、合肥の堅い守りを突破できなかった呉軍は撤退をはじめますが、張遼はこれを徹底的に追撃し、大損害を与えたばかりでなく、あと少しで孫権を討ち取るというところまで孫権を追い詰めています。
こうして、合肥の戦いは圧倒的に劣勢だった魏の勝利に終わりました。張遼の高い人気の源泉は、合肥の戦いに代表される圧倒的な活躍のはずです。しかし、残念ながら『三国志演義』では、こうした張遼の活躍のほとんどがカットされてしまっています。
これは、『三国志演義』の主人公が劉備や諸葛亮孔明率いる蜀であり、魏の武将は脇役に過ぎないからでしょうが、張遼のファンからしてみると残念な気分になりますね。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。張遼は史実では大活躍したというのに、『三国志演義』ではその活躍がだいぶカットされてしまっています。このように、張遼は『三国志演義』のせいでその功績が過小評価されてしまっている人物と言えるのではないでしょうか。
張遼ファンの筆者としては残念ですが、同じ人物でも『三国志演義』と『正史三国志』で見え方が異なってくるというのも、三国志の面白さと言えるのではないでしょうか。
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