陳登の死因は魚の鱠だった?孫呉絶対追い返すマンでも勝てなかった食中毒

2022年9月6日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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憤死する麋竺(モブ)

 

三国志(さんごくし)の武将たちには当然ながら死因があります。この死因には討死の他にも病死であったり、おそらく老衰によるものであったようなものも見受けられますね。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

面白いと言っては何ですが、これらの死因は三国志演義(さんごくしえんぎ)では討死の方が演出的に良いと思われたのか、病死から討死に変わっていたり、壮絶な討死のはずがなぜだかナレ死したりと、変化しているものが多いです。

 

さて今回はその死因の中でも、ひと際変わった死因だったと言われる陳登(ちんとう)のお話です。

 

陳登とお父さん・陳珪

陳登

 

陳登と言われて「?」とこない人は、陳親子、陶謙(とうけん)、というキーワードで思い出しては頂けるでしょうか。そう、三国志演義では陶謙はかなり立派な人物として描かれ、行き違いから曹操(そうそう)に恨まれるが、そこに人徳の非と劉備(りゅうび)がやってきて……紆余曲折後に徐州(じょしゅう)は劉備に譲られることとなります。

 

陳珪

 

陳登と、その父親の陳珪(ちんけい)はこの徐州太守、陶謙に仕えていました。そしてある日、父親を徐州で殺された曹操が復讐戦にやってきます。

 

処刑を下す曹操

 

この曹操の大軍による徐州大量虐殺と呼ばれる戦いが繰り広げられ、徐州は最早これまでかと思われた矢先。

 

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呂布「助けに来たぞ!」(※確かに来た)

曹操を裏切る陳宮

 

呂布(りょふ)陳宮(ちんきゅう)らと共に、曹操のエン州で反乱を起こしたのです。この呂布の反乱自体は荀彧(じゅんいく)程昱(ていいく)らが奮戦して時間を稼いだため、引き返すことができた曹操は何とか呂布を追い返すことに成功しました。

 

陳登と劉備

 

徐州は助かったのです。この後、陶謙は病死し、後継者に劉備が選ばれたため、陳登は劉備に仕えることになりました。

 

劉備と呂布

 

が、そこにやってきたのもまた呂布。劉備に迎え入れられた呂布は、最終的に徐州を奪ってしまったのです。

 

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日替わり弁当かな?

呂布

 

さて陳登はいきなり主となった呂布が気に入らず、追い出すための行動をしていました。呂布も呂布で陳登が自分を気に入らないことは察していましたが、徐州の有力者となっている陳親子をどうにもできないことも分かっていました。

 

陳登を救うために曹操に会見する陳矯(ちんきょう)

 

このため呂布は、陳登の三人の弟を人質としていたのです。が、曹操がやって来ると陳登は弟三人に目もくれず、先陣となって呂布軍を攻めました。これにヤバいと感じたのか呂布の部下は人質を連れて降伏する始末。

 

二刀流の劉備

 

そして呂布がいなくなると再び劉備が帰ってきました。その後、曹操が徐州を劉備から取り返しました。つまり陶謙→劉備→呂布→曹操→劉備→曹操という訳ですね。なかなか落ち着かない土地です。

 

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孫策との戦い

イケメン孫策と袁術

 

さてそんな支配者が目まぐるしく変化する中、陳登は親族が孫策(そんさく)とついでに袁術(えんじゅつ)にやられていたことに腹を立てたのか、反乱を起こさせたりしていました。

 

孫策軍をコテンパンにする陳登軍

 

これにブチ切れたのが江東(こうとう)小覇王(しょうはおう)。たくさんの兵士たちを引き連れて江陵(こうりょう)に攻め込みます。が、陳登も英傑たちの下でいくつもの経験を積んだ猛者。諸葛亮(しょかつりょう)も驚きの空城(くうじょう)の計(ちょっと違うか)で孫策軍の油断を誘い、夜襲からの勝利を決めました。

 

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袁術祭り

孫呉キラー

作戦勝ちする陳登

 

さてさて、その後も孫策、そして孫権が何度も攻め込んで来ますが、陳登は何度もこれを追い返します。陳登は兼ねてより孫家の恐ろしさは理解しており、度々曹操に孫家の危険性を説いていたと言います。

 

 

曹操と会見をする陳登

 

 

後に曹操はこの事を思い出して「陳登の言う通りだった」と孫家に早く対処をしなかったことを悔やんだと言います。そしてそんな陳登は39歳という若さでこの世を去りました。前置きが長くなりましたが、この死因が何とも言えない死因なのです。

 

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鱠スキー

華佗(華陀)と陳登

 

 

陳登は、嘗て名医華陀(かだ)に治療されたことがあります。これは食中毒とも言われますが、その原因が魚の(なます)を食べて起こったとのこと。なます、と言われると大根やニンジンの酢の物を思い浮かべますが、この場合の鱠は生魚、現代で言うお刺身のようなものでしょうか。

 

この時に華陀先生は「腹に虫がおりますので治療します」と仰っているので、生魚を食しての寄生虫と思われます。

 

そして華陀先生の治療によりこの病は治ったのですが、華陀先生から一言。「この病は三年後に再発するでしょう。良い医者を傍において下さい」と言われて、実際に発病。これが死因となり、陳登は亡くなりました。

 

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陳登の死因の原因はともあれ

華佗(華陀)

 

この寄生虫はアレルギー症状を引き起こすアニサキスであるのではないかと言われており、そう考えると陳登がアナフィラキシーショックで亡くなったのではないか、と想像もできます。ともあれ凄いのはこれを「三年後に再発する」と読んだ華陀先生。

 

華佗(華陀)

 

当時はアナフィラキシーなど判明していませんが、もしかしたら華陀先生のような名医であれば「再び生魚を食すと発病の危険がある」と睨んでいたのかもしれません。

 

 

華佗(華陀)

 

 

つまり「長生きしたいならこれ食べるの止めなさい!」というお医者様の一言があった可能性もあります。そういう意味での「良い医者を傍に」=「見張ってくれる人を傍に」だったのかもしれません。

 

 

五禽戯と華佗(華陀)

 

 

しかし陳登は懲りずに生魚を食べて再発……そう考えると、やはりお医者さんの言うことは聞かないといけないということでしょうかね。信頼できるお医者さんがするなということは絶対にするな、そういうことだったのかもしれません。

 

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三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

最後にちょっと余談を。陳登は39歳で亡くなりましたが、実は生年、没年共にはっきりしていないのです。ただ孫策と戦った、華陀先生の診察を受けた、つまり孫策より長生き、華陀先生が生きている間に会ったことがあると分かります。

 

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

 

孫策が200年没、華陀先生が208年没、ついでに曹操が孫権・劉備たちにめっちゃやられたと思われる赤壁(せきへき)の戦いが208年でこの頃には既に陳登は不明なので、おそらく208年前後には亡くなっていたのではないでしょうか?

 

センさんが三国志沼にドボン a

 

ともあれ皆さん、お医者さんの言うことは聞きましょうね!

ざぶーん!

 

参考:魏書呂布伝 方技伝  呉書孫破虜討逆伝

 

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孔門十哲

 

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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