麻薬や違法ドラッグの事件が後を断ちません。
最近でも、元有名プロ野球選手が、麻薬で逮捕され、そればかりに留まらず、
芸能界全体にも、捜査の手は延びようとしているようです。
このような麻薬、違法ドラッグは、実は三国志の時代にもありました。
この記事の目次
その名は、漢方薬 五石散(ごせきさん)
三国志の時代から流行しだした違法ドラッグは、その名を五石散と言います。
五石散は、鍾乳(しょうにゅう)石、硫黄(いおう)、白石英(しろせきえい)、
紫石英(むらさきせきえい)、赤石脂(あかせきし)の5種類の石を
すり潰し酒に混ぜて飲んだもので、元は歴とした漢方薬です。
後漢の時代の医師、張仲景(ちょうちゅうけい)が傷寒(腸チフス)の
治療薬として開発したとも言われていて、不老不死や虚弱体質の改善に
効果があると考えられていました。
また、五石散を服用すると体温があがり、発汗するので、
食事は冷たいものを食べないといけないという決まりがあり、
そこから寒食散(かんしょくさん)と呼ばれたりもしたそうです。
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漢方薬を違法ドラッグにした何晏(かあん)
しかし、世説新語における、寒食散論(かんしょくさんろん)と
いう本によると、このような記述が存在します。
寒食散は漢の時代からあるが、それを知るものは少なく
やがて、知る者は絶えて、製法を知る人もいなくなった。
だが、魏の尚書、何晏(かあん)が使用して初めて神効をあらわし、
大いに世の中に広まり、お前、寒食散やってる?が挨拶になった
寒食散論という書物は、五石散は、漢の時代からあるが、
それを劇的に広めたのは、何晏だと指摘しているのです。
ただの漢方薬が劇的に広まるなんて不思議な記述ですので、
何晏は、本来の五石散の成分をいじり、違法ドラッグに変えてしまった
という可能性があるのです。
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元祖ビジュアル系にして老荘思想のパイオニア何晏
何晏(189?~249年)は字を平叔(へいしゅく)と言います。
彼は、あの大将軍何進(かしん)を祖父に持ちますが、西暦189年、
祖父、何進も父の何咸(かかん)も、宦官勢力によって討たれてしまいます。
何晏は、難を逃れた母、尹(いん)氏の手で、宮中で育てられますが、
尹氏の美貌を見初めた、曹操(そうそう)により何晏も我が子同様に、
曹操の屋敷で養育されるようになります。
曹操は、才気煥発な何晏を気に入り、
少々の派手な振る舞いも大目に見ていました。
恐らく、父を知らない何晏には、曹操は父のように思えたでしょう。
何晏(かあん)は自信に充ち溢れた性格で、また極度のナルシストでした。
元々白かった顔を白粉でさらに白く塗り、女物の衣服をつけて歩き
常に自分の影が崩れないかまで気にしていたようです。
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曹丕に睨まれて不遇の時代を経るも曹芳の時代に抜擢
しかし、曹一族でもないのに、曹一族のように振舞う何晏を
曹丕(そうひ)は憎み、自身が即位すると重要な仕事には
何晏を就けませんでした。
次の曹叡(そうえい)も、曹丕路線を受け継ぎ何晏は不遇のままです。
ですが、西暦239年、曹叡が死んで、曹芳(そうほう)が即位すると
幼少の息子を補佐させようと、曹叡は司馬懿(しばい)と
曹爽(そうそう)の両名を呼んで後見にしました。
たまたま、何晏は曹爽と仲が良かった事から、散騎常侍(さんきじょうじ)、
尚書(しょうしょ)に抜擢され一躍、政界に踊りでるようになります。
何晏は、曹爽に吹きこんで、司馬懿を遠ざけさせ、朝廷の実権を
曹爽一派で独占する事に成功します。
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長い間、引きこもっている間に磨いた弁舌と老荘思想
この曹爽一派が洛陽を支配していた西暦239年から249年は、
曹魏の歴史でも、もっとも退廃が進んだ時期になりました。
何晏は、清談(せいだん)という言論のレトリックが得意であり、
詭弁を使って、論敵を打ち負かしては拍手喝さいを浴びました。
また、老荘思想を研究した彼は哲学に凝り、朝から晩まで、
仲間と高踏な哲学論争を、酒と違法ドラッグである五石散を片手に、
繰り広げていました。
それは、現実政治からの逃避であり、ただ、一日、一日を
虚無的に遊び暮らすという、規律が強い儒教思想から抜け出した
放逸を貪るようなものでした。
一方で、戦争が多かった当時、どうなるか分からない明日よりも
今日を楽しもうぜという何晏の思想が、洛陽の若い貴族の男女に受けた
という事も否定できない事実でした。
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五石散の副作用とは?
何晏が成分をいじった五石散は、強い向精神作用を産みだしたようです。
つまり、気分が高揚して、万能感を味わえるハイの状態です。
一方で、副作用として、皮膚が炎症を起してただれたり、
激しい発汗作用を起し、それは、真冬でも褌一枚で
冷たい石に抱きつかないと暑くて眠れない程だったようです。
充分に熱を発散しないと生命に関わるケースもあったようで、
ここから、五石散を散らす為に歩く、散歩という言葉が産まれた
というような説もあります。
このような事から、中毒者の間では、皮膚炎の刺激から体を守る為に、
広いダボダボな衣服を着る事が流行しました。
また、薬を服用すると体は痩せ、顔は色白になる事から、
五石散を服用出来る程裕福ではないのに、見栄を張り、
ダボッとした服を着て絶食し、街中をふらふらしながら
歩く人間までいたようです。
もちろん、何晏ばかりではなく、より強い刺激を求めて、
五石散の成分配合を変える人間もいたでしょう。
中には、ヒ素を配合し、激しい中毒症状で突然死する人間も後を絶ちませんでした。
今でもある、粗悪なドラッグを混ぜて、中毒死するケースに似ています。
それでも、五石散が高価で特権階級のステータスである事から
ブームは中々去らなかったのです。
あの王羲之も五石散の愛用者だった?
何晏は10年間、退廃的な人生を送った後に、乱を起して返り咲いた
司馬懿によって逮捕投獄され処刑されました。
しかし、五石散は、一向に廃れず、ままならない浮世を忘れる
クスリとして流行し続けます。
あの中国史上、最大の書家と言われる王羲之(おうぎし)も、
五石散にハマった一人だったようです。
彼は、会稽に赴任した頃から、清談の風に染まり、酒、詩、音楽に溺れる
毎日を送ったとされますが、その中で五石散を覚えて中毒になります。
結果、皮膚はただれてしまい、皮膚を刺激しないようなダボダボな衣服を着て、
毎日、ふらふらと焦点が定まらない酔っ払いのような様子で歩いていたようです。
唐代に入ると、五石散ブームは下火になる
何百年も貴族階級を退廃に誘った五石散のブームは、
唐の時代に入り、下火になりました。
大きな理由は二つあり、一つは家柄で出世が決まる九品官人法から、
筆記テストによる選抜方式である科挙が採用され、貴族だからと言って、
出世出来るとは限らなくなった事。
つまり、出世のレールが消え、勉強しないといけなくなったのです。
もう一つは仏教が普及し、輪廻転生の思想が入った事。
これには因果応報もありますから、現世で真面目に生きないと、
次に生まれ変わると、牛や馬のような家畜になる可能性があります。
五石散のようなドラッグに溺れると、次には人として生まれ変われない
というような理由付けがなされ、真面目に生きるのがトレンド化したのです。
三国志ライターkawausoの独り言
何晏が生きた時代は、乱世であるものの、身分が固定化し、
貴族は、何もしなくても、それなりの地位につき、贅沢をして
やがて死ぬというレールが敷かれた時代です。
その安定しているけど、つまらない人生に若い男女は絶望し
刹那な人生を楽しく生きようという風潮が流行りました。
そこで、違法ドラッグである五石散が流行した、
そういう事であるようです。
あまりに貧乏で希望がなくても絶望し、逆に何でもあり、
自分で手に入れる物がなくても絶望する。
人間って難しいですねえ・・
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