私達が歴史に魅力を感じるのは、そこに生きた人間の生命の躍動があるからです。
例えば、歴史年表の羅列では記号に過ぎない「劉邦」という文字の人物が、
実はゴロツキの親分から、史上最強の将軍、項羽(こうう)を破って
天下を取ったと知るだけで、無味乾燥した記号には血が通い、
いつでも酒臭い、気さくな親分の声が聞こえてきます。
もちろん、歴史は乱世ばかりではなく、治世にも見るべきものがありますが、
「戦争はありとあらゆる人間の所業を際立たせる」
という格言もあるように、乱世は、人間が生を全うする為に、知恵と運と、
武力と財力の全てを投入するカロリー燃焼が高い時代なのです。
その乱世には、三国志のように、100年を1スパンとする中期型もあれば、
春秋戦国時代のように、500年という長期のスパンの物もあります。
そして、楚漢戦争は、たった8年間という短期間に、
ありとあらゆる、英雄、豪傑、知謀の士の夢と野望と挫折が、
ギュッと凝縮した、ジェットコースターストーリーなのです。
この記事の目次
楚漢戦争の期間はどれくらい?
楚漢戦争は、狭い意味では、秦を滅ぼした後の論功行賞で
項羽により漢中に左遷された劉邦(りゅうほう)が漢を建国し
項羽の楚に反旗を翻(ひるがえ)す、紀元前206年から、
項羽が、漢軍に追い詰められ垓下で最後を迎える
紀元前202年までの4年間としています。
しかし、はじさんにおいては、春秋戦国時代を終結させた、
秦の始皇帝が、紀元前210年に死去するその年を楚漢戦争の開始とし、
項羽が垓下で最後を迎える紀元前202年までの
8年の間を楚漢戦争として扱います。
何故なら、狭い意味の楚漢戦争で出現する英雄、豪傑、知謀の士の大半が、
始皇帝の死後の陳勝・呉広の乱を境にして雲霞の如く出現するからです。
彼等が、どうして乱世に出てきたのか?それを知る為には、どうしても、
すべての起爆剤になった、陳勝・呉広の乱、そして、その爆発の原因、
始皇帝の死を扱う必要があるのです。
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陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱で噴出する英雄豪傑達
楚漢戦争において、特徴的なのは、その全てが、陳勝・呉広の乱という
100万農民の大反乱から出発しているという事です。
秦の苛酷な法律により、1つの帝国になり、三十六の郡に分けられた
中華は、陳勝・呉広の反乱によって、あっという間に春秋戦国さながらの、
各地に王が分立する混沌たる乱世に逆戻りします。
そして、まるで、運命で導かれたように、この反乱に呼応して、
多くの英雄豪傑が、歴史に飛び出してくるのです。
反乱の首謀者、陳勝(ちんしょう)、呉広(ごこう)、反乱を鎮圧すべく
立ち上がる秦の悲劇の名将、章邯(しょうかん)、陳勝の死後、
江南で反秦連合軍の中心になる項梁(こうりょう)・項羽(こうう)。
罪人として強制労働に服していた豪傑、六(りく)の黥布(げいふ)
陳勝の配下で、その勢力を引き継いで、王になった張耳(ちょうじ)・陳余(ちんよ)、
ゲリラ戦の名人で、項羽の補給を分断した彭越(ほうえつ)。
説客の蒯徹(かいつう)、項梁の前に現れた天下の大軍師、范増(はんぞう)、
流浪を止めて、反秦連合軍に加わる、国士無双、韓信(かんしん)、
始皇帝の死後、生きる目的を探していた、韓の公子張良(ちょうりょう)、
ありあまる謀略の才を持ちながら、主君を得られない陳平(ちんぺい)。
そして、驪山陵に引率する人夫に逃げられ、
自身も逃亡して山賊をしていた沛のごろつき亭長劉邦(りゅうほう)。
時代が時代であれば、たった一人でも天下を制覇できそうな、
英雄豪傑、知謀の士が、ゴロゴロと登場して、
天下を巡り、離合集散、虚々実々の駆け引きを繰り広げる
これが面白くない筈はないのです。
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逃げる劉邦、追う項羽、息詰まるデッドヒート
楚漢戦争の後半は、項羽と劉邦の一騎打ちの様相になります。
それ以外の勢力は、項羽についたり、劉邦についたり中立を保つなど
流動的でしたが、項羽は、無敵の力を見せつけて、大軍の劉邦を撃破し、
劉邦は馬車一台で、追っ手から逃亡したり、
城を包囲されて、餓死寸前に追い込まれたりしています。
しかし、いつでも間一髪のところで、味方に救助され、
また、力を取り戻してしまうのです。
例えるなら、それはボクシングの試合に似ています。
階級でもテクニックでも上回る項羽は、格下の劉邦を、
一方的にサンドバッグにしますが、劉邦はゴングに救われたり、
セコンドのアドバイスで致命傷を防いだりでダウンしません。
一方で項羽は、強いのですが、セコンドの言う事を聞かず、
最後には、これを追いだしてしまう始末です。
こうして、最後の12ラウンド、疲れ果てた項羽は、
劉邦の放った右フックがHITし、マットに沈んでKO負けします。
この、最強の項羽が、最弱の劉邦を追いまわし窮地に追い詰めながら
最後には、敗れてしまうデッドヒートが読んでいて面白いのです。
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印象的な人間ドラマが熱い!
楚漢戦争は、たった8年の短い期間ですが、
いずれ劣らぬ名将同士が激突する為に、多くの名場面が産まれました。
将来の野望の為に、命乞いでゴロツキの股をくぐっても
平然としていた国士無双、韓信の飄々とした逸話。
劉邦が、殺されそうだと聞くや、単身で盾と剣を持って、
項羽の陣営に突撃して劉邦を救い、
項羽に壮士と称えられた樊噲(はんかい)の逸話。
故郷、楚の為に奮戦しながら、自軍を包囲した漢軍の中から
楚の歌を聴き、「すでに故郷の人も余を裏切ったか」と涙を流した
真っ直ぐで純粋な魂を持つ項羽の逸話。
何度も劉邦を殺すように献策したにも関わらず、
劉邦を侮り、一向に殺そうとしない項羽に対して、
「豎子(じゅし)、共に謀るるに足らず」(青二才と天下の事は語れない)
と吐き捨てて、項羽の陣を去った大軍師、范増の絶望の一言。
いずれも、一度読むと忘れられない逸話揃いです。
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人間の業と奔放な野心が感じ取れる時代
楚漢戦争の8年は、一面では殺戮の歴史です。
特に項羽の虐殺ぶりは凄まじく、降伏した秦兵20万人を崖から落として
岩を投げ込んで一瞬で殺すなど、桁外れのジェノサイドです。
その血みどろの殺戮を行う人間の業に戦慄します。
一方で、この時代は、全く無名の韓信のような男が劉邦の許可で
あっという間に大将軍になるなど、実力次第で、どんな地位でも望める
活気と熱気に溢れた時代でした。
楚漢戦争には、一生懸命に生き、死ぬという言葉が似合います。
なんだか、元気が出ない時、人生がつまらない時に読むと、
生命の限界ギリギリで輝きを放つ、英雄豪傑達が眩しく見えますよ。