三国志に出てくる、三国の一国である呉。その呉の誇る人物、周瑜。もはやその才覚、能力は疑うべくもない人物ではありますが。今回はその周瑜の、性格についてお話をしてみたいと思います。
周瑜はどんな性格だったのか?それに加えて、その性格の中で「ここ!」と思われる部分を逸話を添えて。たっぷりと述べさせて頂きますね。
この記事の目次
諸葛亮コンプレックス……は三国志演義の策!
さて周瑜というと眉目秀麗にして軍略の天才、親友・孫策の亡き後、彼の弟である孫権をその才知でもって支えようとするのですが……彼の前に現れたのは、諸葛亮。
その才を危ぶみ、亡き者にせんと動くもその企みは殆ど看破され、時に逆に利用され……病に倒れた所に追い打ちのような手紙を受けた周瑜は天をも恨み「既生瑜、何生亮」と叫んでこの世を去る……というのは三国志演義の話。
この辺りの描写は三国志演義の創作部分でも賛否両論ある部分ですね。正史では才覚はもちろん、容姿にも優れており、そしてどちらかというと諸葛亮よりも劉備を危険視している人物です。
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本来の周瑜の姿は、出自までも揃ったパーフェクトイケメン
周瑜は才覚に優れ容姿も優れていた、と言いましたが、それだけでなく、名家の出身でした。高祖父の周栄が尚書令、従祖父の周景、従父の周忠が三公の一つである太尉を務め、更に父親である周異も洛陽県令となっています。
名家出身で才覚はトップクラス、そして容姿はイケメン中のイケメンで、後の小覇王、孫策とは親友……と、まるで主人公のようなステイタス。ではそんな周瑜の性格は、どのようなものだったのでしょうか。
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パーフェクトイケメン周瑜の人心掌握術教室……!?
周瑜は寛大な性格であり、意外に思われるかもしれませんが「人心を掴むことを得意としていた」と言われています。その周瑜が当初仲良くできなかったのが孫家の宿将、程普でした。
程普は若輩者である周瑜を侮辱していましたが、周瑜はそんな程普に一歩も二歩も譲り、謙虚な姿勢で接していました。このため最終的に程普は周瑜に対しての態度を改めるようになったのです。こういう不仲だった二人が和解するのは、刎頸の交わりにも似ていて興味深いですね。
また周瑜伝の注釈に引かれる江表伝ではこの一件について程普が「周公謹との交わりは極上の酒を飲んだかのように自分が酔っていることにさえ気が付かない」と述べています。それほどまでにするりと、心に深く入り込むのが、周瑜という人物の凄さであったのかもしれません。
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周瑜の性格で特出すべきは「慎重さ」!
そんな周瑜の性格、特に筆者が特出しているのは「慎重さ」であると断言させて頂きます。もちろん「周瑜の性格は慎重の一言であった」と記されている訳ではありません。しかし周瑜は誰よりも慎重に事を進める性格だった、と思わせる振る舞いがいくつも見受けられるのです。
その一つが孫策亡き後、孫権が後継者として立った時。諸将はまだ若輩の孫権を軽んじていました。そこで名家出身、孫策の最も傍で仕え、支えていた周瑜は率先して臣下の礼を持って孫権に接したため、諸将も周瑜に倣うようになったと言います。孫権は周瑜を頼りにし、度々兄に対するように接したと言いますが、その反面、周瑜は諸将の手本となるようにあくまで臣下としての態度を崩しませんでした。ここに周瑜の慎重さがあるのですが、それはまた後程。
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周瑜、魯粛を「逃がさない」
さて周瑜は嘗て、袁術の元にいた時に魯粛と友誼を結びました。この時に魯粛の才覚を見抜いた周瑜は後に呉へ亡命する際、魯粛を同行させています。後に魯粛は「曹操殿に仕えようかな~」と考えるようになるのですが、ここで周瑜が既に驚きの行動に出ていました。
なんと周瑜、魯粛の母親の身柄を呉にて抑えていたのです。周瑜はこの際、魯粛に如何に孫権が王者として素質を備えているかなどを語って魯粛を熱心に説得、魯粛は孫権に仕官することになります……
自分の信じる主君のために有能な人材を確保する、というと聞こえはいいですけど、ここで先に身内を押さえておく周瑜の行動力……少し恐ろしくもないでしょうか。真摯に説得はする、それはそれとして母親の身柄は抑えておく。これも、周瑜の慎重さを表していると思います。
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周瑜、劉備を大いに警戒す
周瑜は正史において、諸葛亮ではなく劉備の方を警戒していました。とはいえ、ここまで劉備に関わったことのある袁紹や劉表が滅んでいる訳ですし、周瑜でなくとも劉備を警戒していた人物は少なくはなかったでしょう。
実際に周瑜は劉備を懐柔し、関羽、張飛と引き離して彼ら二人は自分が率いる献策を行っていますが、これは孫権に退けられています。
ここで別件、劉備ではなく、周瑜を懐柔しようとしたのが曹操です。曹操は周瑜の元に同郷の蒋幹を遣わして説得させていますが、これは周瑜自身が拒みました。また劉備も周瑜と孫権の間に罅を入れようとしたと言いますが、これも失敗に終わっています。ここに、周瑜が慎重にならざるを得なかった理由が見えて来ないでしょうか。
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周瑜はどうしてそこまで警戒するに至ったか
周瑜と孫権は、立場は孫権の方が上です。ではなぜそうなるかというと、周瑜がそう振る舞い、行動をしている部分が大きく影響しています。逆を言うと、周瑜が反旗を翻そうとするならば、できてしまう、そんな微妙な関係でもあるのです。
そしてそのことを誰よりも知っていたのが、周瑜本人でした。だからこそ劉備が、曹操が、そこを狙って付け込もうとしてくる。僅かな隙を見せてしまえば、その隙に入り込もうとしてくる人間が多かったからこそ、周瑜はどこまでも慎重に行動しました。
その慎重に動けたことこそが、周瑜が誰よりも慎重で、綿密な性格をしていたからこそだと思います。そしてそんな性格であった周瑜だからこそ、最期まで孫権に仕えて終わった、一片の曇りもなく忠臣でいられたのではないかと思うのです。
周瑜がどうしてそこまで孫権に真摯に対応したのかは分かりません。それは亡き友との金属をも断ち切ることができる強い絆か、幼き主君を仕えるべき王と定めたか、それとももっと別の何かだったのか。そのどれも、周瑜の魂の熱さ、が感じられて好きですね。
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三国志ライター センのひとりごと
個人的にずっと周瑜の忠義は孫策との友情、という意識が強かったのですが。「蒼天航路」を見て、それはそれとして孫権に王者の才覚を見出す忠臣、周瑜の姿もまたアリだな……と思った筆者です。
しかし周瑜、知れば知るほど「完璧」という存在は確かにいるんだな、と思いますが、それでも天は周瑜に命の輝く時間だけは与えてくれなかったんですよね。もっと永く、その魂を輝かせる周瑜の姿、見てみたかったですね。どぼん。
参考文献:呉書周瑜伝 魯粛伝 江表伝
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