諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)も姜維(きょうい)も、揃って北伐を行っている事は、三国志を知っている方ならご存じだと思います。
孔明は、西暦227年から没する234年まで7年間という間、一方の姜維は、西暦253年、北伐慎重論の費禕(ひい)が横死してから、262年まで、9年間に渡って北伐を敢行しました。
ところが、どちらも、軍事的には失敗でありながら、孔明の北伐は擁護する声が多く、姜維の北伐には批判が多いです。その原因は、二つの北伐の質の違いにありました。
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蜀の存在理由を北伐とリンクさせて支持を受けた孔明
基本的な事ですが、孔明は北伐を行うにあたり、どうして北伐が必要か?という事を端的には、出師の表を表わして説明しました。
孔明「蜀は、魏に追われた先帝が興した地方政権ではなく、亡国に追い込まれた後漢を継ぐ正統な王朝である。
故に、簒奪者の魏と同じ天を頂く事は出来ないッ!
今こそ、立てよ! 立てよ蜀人!悲しみを怒りに変え、人の道を知らぬ虎狼の曹魏に、裁きの鉄槌を下すのだ!」
ここには、放置しておくと、やがてだらしなく腐敗していくであろう蜀の官僚組織を常に引き締める意図がありました。そして、北伐は、蜀という政権が続く限り止めるわけにはいかない存在意義になります。
また、孔明は、南方経営や、塩鉄の専売で軍事費を賄い、出来るだけ、蜀の人民の生活に負担が掛からないように配慮もしていました。
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費禕の戒めを無視して、北伐を再開した 姜維
一方の姜維は、若い頃から北伐の再開が持論でしたが、孔明の後継者である蔣琬(しょうえん)は兎も角、次の費禕になると、
「孔明でさえ、出来なかった北伐を我々に出来るわけがない、ここは、堅く守り、情勢の変化を見るべき」
という考えにシフトします。
それでも、丞相の遺志を継いでという意見はありましたがやはり、大勢はリスクよりも安定に傾いていきます。
そこを費禕の死後、武力を背景に強引に北伐に持って行ったので、勝っている間はいいですが、段谷(だんこく)で鄧艾(とうがい)に大敗すると、人民の恨みは募り蜀の疲弊に拍車を掛けたのです。
また、孔明のケースと違い、特別な財源を用意出来ているわけでもない事も恨みを深くしたでしょう。
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長安と洛陽の陥落に戦略の主眼を置いた孔明
孔明の北伐の大目標は、長安、あわよくば洛陽を落して後漢の帝都を回復し、魏の反撃をしのぎつつ拠点を確保しゆくゆくは、そこに劉禅(りゅうぜん)を迎えて後漢の正統後継者である、蜀漢の正統性をアピールする事です。
孔明は、連携を上手く行かせる為に、祁山や街亭というような、涼州と成都、長安を結ぶような戦略拠点を抑えようとします。勇猛で、必ずしも魏に服属しているとは言えない、涼州の諸民族をまとめ上げて、対抗する事で、軍事力のハンディキャップを補いかつ、涼州・擁州を蜀領に組み込む考えです。
これは、後漢の天下の回復という大義名分にも合致していますし実際に、長安一つでも失陥していれば、呉もこれに呼応し、魏には、最大のピンチが訪れた事でしょう。
事実、第一次北伐は、馬稷のチョンボが無く孟達(もうたつ)の蜀への寝返りが迅速であったなら、蜀軍は、長安・洛陽を同時に衝く事が出来、魏は背後には、遼東の公孫一族もあり、南には呉もありで、かなりの大ピンチになり、鄴(ぎょう)まで遷都した可能性もあります。
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涼州を切り取る事に終始した姜維の北伐
一方の姜維は、孔明の北伐を受け継いだ割には、長安に目をつけるというような事はありませんでした。西暦257年に、魏で諸葛誕(しょかつ・たん)が反乱を起した時に、虚を突いて、秦川を越え長安を狙う素振りを見せただけです。
どうして、姜維が涼州を荒らし回る事が多くなったのか?
というと、ここが魏の本拠地から遠く、守りが手薄だった事に大きな理由があります。
魏の影響力が弱いのだから、ここでは北伐の成果が得やすいという事ですし、元々、姜維は涼州の人間ですから、土地勘も、人脈もあったのかも知れません。
ですが、涼州は不便な土地であり、姜維の思惑も思った程には成功しませんでした、時々、涼州の人民を蜀に強制的に移住させたりする戦果はありましたが、、本拠地を狙われた訳ではない、魏の側から見ると、その重圧は孔明の頃より弱かったと言えるでしょう。
また、辺境でのゴタゴタは蜀の人民へのPRが弱く、蜀の首脳部への受けも、余り良くなかったと思います。北伐は姜維の自己満足という悪評も立つ事になったでしょう。
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