西暦200年、官渡の戦いを制した曹操でしたが、この戦いに勝てた大きな要因として袁紹軍の兵糧輸送隊への襲撃成功があります。
その際に、輸送部隊の守将や宿営の場所、兵力、士気の低さといった情報をもたらしたのが許攸という人物です。
許攸と袁紹の出会い
許攸は荊州南陽郡の出身で、袁紹とは群雄として旗揚げする以前から交流がありました。袁紹は若くして父母を亡くしており、母親の喪が明けてから遡って父の喪に服しています。
6年に渡って墓の側で暮らしていた時期があり、この頃は天下に知られた名士でなければ会うことは叶いませんでした。その際に、奔走の友(危機に陥った時には駆けつける間柄)の契を結んだのが張邈や何顒、伍瓊、呉巨、許攸です。
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許攸が袁紹配下となった経緯
許攸は189年に冀州刺史だった王芬の誘いに乗って、霊帝を廃して合肥侯を新たな皇帝に立てようと画策します。
王芬の計画では黒山賊を防ぐという名目で派兵し、霊帝の北部巡行の際に襲撃をする手はずでした。しかし、計画を実行に移す前に霊帝が王芬を朝廷に召還したため、事の露見を恐れた王芬は自殺します。
結局クーデターは失敗に終わり、身の危険を感じた許攸は渤海太守となっていた袁紹の元へ逃亡。袁紹の謀士となり、その後は田豊や荀諶と並び称されるほどの人物となります。
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許攸は野心家だった
許攸が裏切った詳細については正史の中にも記載されています。しかし、様々な理由が記載されているため、どれが真実かは定かではありません。その中の理由の一つに、袁紹が許攸の欲求を満たすことができなかったというものがあります。
前述したクーデター計画へ参加したことを見ても許攸が野心家であることがわかりますし、陳寿と荀彧の評価も貪欲な人物であると評しています。
また、袁術は淫らで不純な人物と評していることからも欲深い人物だったのでしょう。曹操に内部の情報という手土産を用意し、曹操軍が困窮した効果的なタイミングで投降しています。
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袁紹は許攸を重用しなかった
孔融が智謀の士であると評価しているように、許攸は袁紹に対して数々の進言を行っています。例えば、官渡の戦いでは直接曹操を迎え撃たず、兵を分散させつつ袁紹自身がまっすぐ許都へ向かい、献帝を迎えるよう提案。
資治通鑑によれば曹操軍の兵力が少ないことから手薄になった許都を軽騎兵で襲撃し、天子を奉戴すれば曹操を捕らえられると進言していますが、いずれも袁紹は聞き入れませんでした。
その結果、許攸は失望し曹操へ降ったと言います。許攸は曹操軍の兵糧がごくわずかであることを看破していましたし、奇襲作戦を進言するなど優れた能力を持っていたようです。その才が活かされないとあっては寝返りも仕方がなかったのかもしれません。
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許攸の家族の罪
荀彧伝によれば、袁紹の配下である審配は独善的で無策な人間であると評価されています。官渡の戦いで留守を任された審配は、許攸の家族が罪を犯すとこれを許さず逮捕しました。
その結果、許攸は曹操へ投降してしまったのです。審配はこの他にも沮授や逢紀らとも対立をするなど味方を陥れる行為を繰り返し、袁紹軍弱体化の原因を作ったとも言えます。こうした審配の采配が許攸の裏切りを招き、官渡の戦いは決したのかもしれません。
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許攸の裏切りと官渡の戦いの決着
許攸は曹操に降ったあと、曹操軍の兵糧がどれくらい持つのかを訪ねています。曹操は2度に渡り偽りの答えを述べますが、台所事情を見透かしていた許攸に詰問され1ヶ月分しか無いと告白。
状況打開の策として許攸は袁紹軍の兵糧輸送部隊に関する情報を提供し、それを信じた曹操は奇襲を成功させます。この失策から袁紹の配下だった張郃と高覧が投降、総崩れとなった袁紹軍は8万人の兵を失い戦に敗北しました。
許攸の裏切りは官渡の戦いの勝敗を決める大きな一手になったと言えます。ただ、袁紹軍内部は足の引っ張り合いが頻発していたこと、袁紹が決断力に欠けていたことなどから、許攸の裏切りがなくとも、判断ミスにより勝機を逃した可能性も否定はできません。
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三国志ライターTKのひとりごと
官渡の戦いに際して袁紹は劉表に加勢を要請し、劉表も承諾をしていますが、援軍を送ってはいません。これは荊州南郡で張羨が反乱を起こしていたためですが、その前にも宛城にいた張繡が劉表から寝返り曹操へ帰順しています。
また、この頃の孫策は袁術軍の残党を糾合し、一大勢力となっていました。曹操はこれを手懐けようと孫匡に親族を娶らせ、曹彰にも孫賁の娘を嫁がせていますが、孫策は許都の襲撃と天子奉戴を計画しています。
結果的に孫策は暗殺されてしまい失敗に終わっていますが、官渡の戦いはあちこちで裏切りが発生した興味深い戦と言えます。この微妙なパワーバランスが少し崩れるだけでも官渡の戦いの結果は大きく変わっていたのかもしれません。
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