袁家は、四世代にわたって三公に就任した人物を出した家柄というスーパー名家で知られています。
三公とは宮中の最高位である司徒、司空、太尉を差します。
今でいう大臣ですね。日本の総理大臣くらい凄いです。
それぞれは前漢の時代には別の呼ばれ方をしています。
司徒は丞相(大司徒)と呼ばれていて、教育や財貨、土地などを管理する大臣です。
司空は御史大夫(大司馬)と呼ばれていて、治水や土木工事、囚人の管理をする大臣です。
太尉は大司馬と呼ばれていて、軍事を管理する大臣です。
この記事の目次
袁術の祖父も父も叔父も凄いエリート
ちなみに袁術(えんじゅつ)の祖父・袁湯はなんとこの三公すべてを歴任しています!
父である袁逢(えんほう)は司空を務めました。
叔父の袁隗(えんかい)も司徒を二回務めています。
現代でいうと祖父も総理大臣、父も総理大臣、叔父も総理大臣っていうくらい凄い家系です。
ちなみに三公の世襲は認められていません。袁術はそこの御曹司なのです。
なぜ袁術と袁紹は仲良くできなかったの
袁術と袁紹(えんしょう)は異母兄弟といわれています。
正腹から誕生したのが袁術です。
側室から生まれたのが袁紹といわれています。
庶子という扱いです。
ちなみに袁術には同腹の兄・袁基がいましたが董卓(とうたく)に殺されています。
当時太僕であった袁家当主の袁基が死んだことで袁家の家督争いが起こったのです。
一説では袁紹は袁湯から家督を譲られるはずであった長子・袁成の子だともいわれています。
袁成は夭折しています。この辺りは謎です。
袁湯から袁逢へ、そして袁基に受け継がれていた「安国亭侯」の爵位は宙に浮いた状態になります。
この取り合いをしたのが袁紹と袁術です。
互いに譲れぬ言い分がありそうですね。
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同じスーパーエリートで年上の楊彪が義弟になる
袁家に並ぶ名家中の名家、楊家もやはり三公を輩出する家柄です。
三公をすべて歴任し、最も影響力のあった政治家・楊賜の長子が楊彪(ようひょう)です。
楊賜は袁術の父である袁逢と並び称され、共に霊帝時代の「国三老」という政治界の二大巨頭だったのです。
正義を貫く楊彪は、霊帝期に議郎を拝命した後、
侍中、京兆伊を経て、司隷校尉の陽球と共に、宦官の統括者である黄門令の王甫を断罪して誅殺。
中央政府に戻り、侍中、五官中郎将、潁川太守、南陽太守を歴任し、さらに中央に戻り侍中、永楽少府、太僕、衛尉と累進。
ここで清流派の筆頭格でもある袁家の娘と結婚しています。
袁逢の娘です。袁術の妹にあたります。つまり楊彪は年下の袁術の義弟になったのです。
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兄弟手を取り合って宦官殲滅へ
霊帝亡き後、政治を腐敗させてきた宦官討伐を袁家と楊家が陣頭に立って為すのです。
袁術は腕に覚えがあるので自ら宮中に斬り込んでいます。
しかし肝心の皇帝の身柄を押さえられず、董卓の恐怖政治が始まります。
袁術は悔しくて逃亡。そして反董卓連合に名を連ねます。
楊彪は袁術の義弟でしたが、なぜか出世し、三公にあたる司空、さらに司徒となります。
(ここで袁術の叔父の袁隗と兄の袁基が董卓に殺されています)
楊彪はしばらく中央から離れず、董卓亡き後は太尉として献帝を支えました。
楊豹は董卓の長安遷都にも真っ向から反論し、また後継者たる李傕や郭汜に対しても異を唱える肝っ玉です。
何だかんだいって三公すべてを歴任しているというのは凄い話です。
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袁術が死んでからも、楊彪は長生きします
曹丕(そうひ)の時代、曹丕自ら楊彪を三公の太尉に用いようとしたという話もあります。
反逆者袁術の義弟に対してとは思えぬ起用法です。
しかも超老人です。
お断りしてから病死した楊彪と共に後漢は完全に滅亡したとされています。
もしかすると袁術が楊彪と同じように正義の徒であったかもしれませんね
歴史とはその後を支配するものに自分勝手に塗り替えられるものだからです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
袁術の父・袁逢も、楊彪の父・楊賜も共に霊帝時代を代表する政治家でした。
嫡子である楊彪は宮中で皇帝の傍にあって活躍をしましたが、公に家督を継いでいない袁術はそうはいかなかったのでしょう。
ただし董卓から後将軍、李傕から左将軍の位に任じられているように、影響力はかなりあったのだと思います。
ただし、三公すべてを歴任した楊彪をうらやんで、勢いでその上の皇帝になっちゃったのかもしれません。