現代人の人生設計を考えると、一度新卒で腰を下ろした会社に定年までいるという方が大半でしょう。
その方が安定していますし、待遇も期待できます。
しかし、不況のあおりを受けてのリストラ、又は会社に先が無いと思った時等、そう言った時は例外です。
人生設計をもう一度考えなければなりません。
この記事の目次
三国志に学ぶ人生設計
希望を持ってやりたいことを見つけて仕事を辞めるよりもこうした「負の理由」でやめるのは心苦しいですよね。
このような場合の選択は、人生の分かれ目となる選択であり、それでいてどれをとっても満足や安心は無いという選択です。
そういう場面で、正しく先を見据えて考えられる人は優れている人でしょう。
例えば会社を辞めたとして、その後どうするか、自身の何を生かして転職するか、「若さ」か「資格」か「スキル、知識」か。
どうするのが最善か先を見据えて考えねばなりません。
何も考えなければ無残な結果が待っています。
リストラされたあるいは会社を辞めたので、とりあえずその場凌ぎフリーターしてだらだらしていたら、
時間だけが過ぎてしまい、いつの間にか正社員の道が閉ざされていたというパターンは現代でも珍しくないのではないでしょうか。
「若さ」も「資格」も「スキル」も無くなれば、後は詰むだけです。
三国志の時代でももちろんそういう分岐点に直面した人々はいました。
ある者は敵国からの攻撃を受けて、ある者は味方から糾弾されて、自身の道を決めました。
三国志の時代では、安易に死罪に処す人もいるので、一度のミスで命を失うことも全く珍しくありません。
現代以上に、先を見据えて動かなければいけなかったのです。
今回はそうした人生の分かれ目に直面した武将達の決断とその後について紹介致します。
知識を生かせ!王平のケース
王平(おうへい)は、元々魏の校尉でした。
漢中攻防戦において、曹操(そうそう)軍の先陣の徐晃(じょこう)とともに、副将として王平(おうへい)も進軍しました。
王平(おうへい)は漢中の地理に詳しかったため、郷導使いわゆる道案内として同行しました。
蜀軍と川を挟んで向かい合った徐晃(じょこう)は、川を渡って背水の陣を敷こうとします。
しかし、王平(おうへい)は「背水の陣は、敵に謀略が無いと分かっている時にするもの、敵に謀略が無いと言い切れません。」
と反対します。
しかし、徐晃(じょこう)はこれを聞き入れず、川に橋を通して渡り、そこで陣をとり、
蜀軍を迎え打とうとしました。一方で、王平(おうへい)は自身の手勢のみで、川を渡らず陣を配備しました。
結果的に、徐晃(じょこう)は敗戦を喫しますが、敗走してきた徐晃(じょこう)は王平(おうへい)に、
なぜ救援に来なかったのかと問い、王平(おうへい)を糾弾します。
王平(おうへい)「救援に行っていては、今頃この陣がとられていました。今回の敗戦は私の責任ではありません。」
これに怒った徐晃(じょこう)は、王平(おうへい)を殺そうとしますが、部下達にそれどころではないと止められます。
その場は首が繋がった王平(おうへい)ですが、決断を迫られます。
「このままでは、私の進退も危うい。敗戦の責任を押し付けられれば、打ち首は免れぬ。どこかに逃げなくては・・・。
幸い、今この漢中の戦いに限って言えば、蜀も郷導使としての私を必要としているはずだ。」
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蜀の天才軍師・孔明の精神攻撃
こうして、王平(おうへい)は陣に火をつけると、自身の手勢とともに蜀軍に降るのでした。
この後、彼が教えた地理的情報を元に、蜀の軍師孔明(こうめい)は敵に見つからない位置で陣をとり、
夜通し太鼓をドンドン鳴らして夜襲を繰り出すふりをして、曹操(そうそう)軍を怯えさせ不眠症にさせたと言われています。
孔明から信頼を得る王平
その後、王平(おうへい)は蜀の将として働き、多くの功績を挙げます。
王平(おうへい)は、孔明(こうめい)に、何事にも慎重で用心深い、と評されます。
街亭の戦いでは、馬謖(ばしょく)が山頂に陣取るのを諫め、
またそれを聞かずに馬謖(ばしょく)が敗北した時にも太鼓をドンドン鳴らして、
指揮を高く保ちかつ伏兵がいるかのように見せる等の策で魏の張郃(ちょうこう)を追い払った話も有名です。
彼の蜀の将としての慎重かつ堅実な働きは有名ですが、これらも彼の決断無しにはあり得ませんでした。
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一緒に転職!范彊と張達のケース
関羽(かんう)の死後、呉に対して弔い合戦を決意した劉備(りゅうび)と張飛(ちょうひ)。
部下である范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)に準備を命じました。
張飛(ちょうひ)「この戦いは義兄の弔い合戦じゃ、3日の間に白装束を3万人分用意するのじゃ!分かったなぁ!!!」
范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)「さすがに3日で白装束を3万もそろえるのは無理です、絶対に間に合いません。」
それを聞いた張飛は激怒します。
張飛(ちょうひ)「貴様らサボる気か!この怠け者が!義兄の弔い合戦を何だと思ってやがるんじゃ!!!」
張飛(ちょうひ)は二人を棒で散々殴り散らした後、必ず3日までに間に合わせる様に命じ、
間に合わねば死罪にすると告げ、その場を去りました。
范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)が取った行動とは?
范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)に与えられた選択肢は、白装束3万を揃えるか、3日後に打ち首になるかでした。
しかし、この二人は別の選択肢としていっそのこと張飛(ちょうひ)の首を手土産に呉に下ることにしました。
酒に酔いつぶれた張飛(ちょうひ)の元に現れた二人は急所をつき殺害した後、首をとって呉に降りました。
しかし、その後、張飛(ちょうひ)が殺されたことを知った劉備(りゅうび)は怒り、義兄弟二人の弔い合戦のために、夷陵の戦いに赴きます。
夷陵の戦いで、蜀の指揮の高さに劉備(りゅうび)の逆鱗に触れてしまったことに気づいた呉軍は、
怒りを抑えるために張飛の首と裏切り者の范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)を蜀陣へ共に送りました。
范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)は命乞いしましたが、
張飛(ちょうひ)の子、張苞(ちょうほう)の手で打ち首となりました。
この二人に関しては、どの選択肢が正しかったのか、なんとも言えません。
生き延びるために逃げたのは良いとしても、呉に降るにしても、范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)がいても、
呉にはあまりメリットは無かったということになりますからね。
こういう時、賢人は己の機智で以って白装束3万を用意していたでしょう。
三国志に限らず、中国の歴史では、こういった「命がかかった分岐点」で知恵者が機智を以って切り抜ける話は数多く受け継がれています。
そうした才覚というか、命がかかった時に「生き残るための頭の良さ」というのがこの二人には足りなかったのかもしれません。
呉に降った時も、重用されるような才覚があれば、蜀に送り返されることも無かったでしょう。
そういう点では、彼らの失敗はその場を逃げるだけで先を見通せなかったことなのかもしれません。
なお、正史三国志では彼らは呉に下った後どうなったかは分かっておりません。
一族の恨み!夏候覇のケース
夏候覇(かこうは)は、夏侯一族の将である夏侯淵(かこうえん)の息子です。
しかし、父の夏侯淵(かこうえん)は定軍山の戦いにて蜀の老将軍黄忠に討たれています。
それゆえ、彼の蜀への恨みは深いものがありました。魏への忠誠と蜀への恨みが彼の全てでした。
しかし、その後転機が訪れます。
補佐として曹爽(そうそう)と司馬懿(しばい)が支える体制となりました。
しかし、曹爽(そうそう)は司馬懿(しばい)を太傅という、地位は高いが権力の無い閑職に祭り上げ封じました。
そして、曹爽(そうそう)はその一族とともにやりたい放題していました。
しかし、司馬懿(しばい)が反乱を起こした時に曹爽(そうそう)が殺されたため、
夏候覇(かこうは)は一族の危機を悟り進退極まります。
とはいえ、魏に残ってはいられず、蜀へ亡命しました。
何で夏候覇は呉ではなく蜀へ亡命したの?
夏候覇(かこうは)が蜀に降った理由は、蜀では受け入れられやすかったためであると考えられます。
張飛(ちょうひ)は夏侯一族の者を娶っており、その娘が劉禅(りゅうぜん)の皇后であるので、
劉禅(りゅうぜん)の親族となります。
加えて、魏を討とうとしている蜀では侵攻時に道案内が必要となるため、重役として遇されます。
夏候覇(かこうは)としても、仇討ちという目的があります。
呉に下っては魏の回し者と見られたり、積極的に魏を討とうとせず、
隙を窺うだけの呉では、蜀と比べて重宝されなかったでしょう。
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姜維と共に北伐に参加
夏候覇(かこうは)は姜維(きょうい)とともに北伐に参加し、武将としてはもちろん案内役として活躍しました。
魏として蜀を打つ立場から蜀として魏を打つ立場に変わり、180度方向性が変わっており、
不忠という見方もありますが、一族の恨みという新たな目標ができたが故のことでした。
後に北伐で討たれていますが、将として全うな生涯を終えたとも言えます。
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三国志ライターFMの独り言
現代でも突然現れた分岐点で正しい選択をすることは難しいです。
その場では一見正しいように見えても、その決断が後々になってよくない結果を招くようなこともあるからです。
今回示した、王平(おうへい)や夏候覇(かこうは)は突如、自身の立場が危うくなり、逃げ出したような形で決断をしました。
王平(おうへい)は漢中の地理に詳しく蜀の漢中攻略に重用できること、
夏候覇(かこうは)は魏の内情や地理に詳しいことが北伐の時に重要であること等、
彼らにはある種の「スキル」のようなものがありました。
一方で、范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)は、張飛(ちょうひ)の首を持って投降したものの、
彼ら自身にスキルのようなものはありませんでした。
彼らは、冒頭で述べたように目先のものばかりに捕らわれて、後先を考えていなかったフリーターだったのかもしれません。
重用されるようなスキルがあれば、彼らも厚遇で迎えられていたでしょう。
特に王平(おうへい)は、孔明から「忠義の士」と評され、後の蜀を支えるような将になっています。
とはいえ、私は王平(おうへい)も実はそれほど先までは考えていなかったのではないかとも思います。
確かに、郷導士として重用されたというのは自身のアピールする上では良かったと思いますが、
それは重用される「きっかけ」にすぎないと思います。
いかなる状況でも、冷静にその状況を見据え、
整然と太鼓をドンドン叩いていたその堅実さが、「その後」の彼の評価を決めたのかもしれません。
何といいますか、就職や転職の時でも当初の「スキル」を見て人を雇いますが、
それは「スキル」であって、「その人自身」ではないということですね。
「きっかけ」も大事ですが、「その後」はもっと大事です。