反董卓連合軍に参加したのは、誰と誰なの?【素朴な質問】

2016年6月12日


 

反董卓軍010

 

黄巾の乱の平定もつかの間、朝廷では一時休戦していた宦官と外戚の

対立が再び激しくなり、それは、霊帝(れいてい)の死によって頂点に達します。

皇位継承が絡んだ泥沼で、漁夫の利を得たのは西涼の軍閥の董卓(とうたく)ですが、

その暴力政治に次第に人心が離れ、心ある諸侯が立ちあがって

董卓排斥を訴えたのが、反董卓連合軍です。

 

しかし、反董卓連合軍の参加諸侯はごちゃごちゃしてて、

誰が誰だか初心者には、分りにくいですよね?

そこで、はじめての三国志では、反董卓連合軍に参加した諸侯の名前と

プロフィールを簡単に紹介しちゃいますよ。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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この記事の目次

反董卓連合軍エントリーNO1 袁紹本初(えんしょう・ほんしょ)

袁紹が宦官を惨殺に行く

 

言わずとしれた、後漢王朝のエリート、汝南袁氏の御曹司、

袁家は後漢王朝の総理大臣クラスである三公、司徒、司空、大尉を

4世代にわたり、連続で出した名門の家柄。

袁紹が反董卓連合軍のリーダーになったのも、ひとえにその血筋。

当人は、そんなに戦争に熱心でもなく、董卓が洛陽を焼き払い、

長安に遷都すると情熱を失い、領土争いに腐心するようになり、

連合軍瓦解の一因になる。

 

後に北方四州を制覇し、曹操と天下分け目の官渡の戦いを

争うが敗れて、一族は滅亡する。

 

反董卓連合軍エントリーNO2 曹操孟徳(そうそう・もうとく)

曹操

 

後漢の大宦官、曹騰(そうとう)を義理の祖父に持つ、大金持ちのドラ息子。

非凡な才能を持つ戦略家、詩人で、政治家としても秀でている。

後には、中国の三分の二を支配し、魏を建国した英傑。

ただ、反董卓連合軍結成時は、董卓の元から逃げた直後で無職。

 

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反董卓連合軍エントリーNO3 公孫瓚伯圭(こうそんさん・はくけい)

公孫瓚

 

異民族討伐のプロで、烏丸(うがん)族の騎馬兵を度々打ち破る戦功を立てる。

白馬義徒と称される精鋭の騎馬軍団を保有する攻撃力の高い将軍。

後に北方四州の支配を巡り、袁紹と対立するが敗れ自殺する。

この当時は北平の太守だった。

 

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反董卓連合軍エントリーNO4 劉備玄徳(りゅうび・げんとく)

劉備

 

公孫瓚軍にくっついている三国志演義の主人公の一人。

桃園(とうえん)の誓いで生死を共にすると誓った、義兄弟、

関羽(かんう)張飛(ちょうひ)を従える。

率いているのは義勇兵だが、義弟関羽が董卓の部下・華雄(かゆう)

斬ったり、3人がかりで呂布(りょふ)と互角に打ち合うなど見せ場が多い。

後に益州に蜀漢を打ちたてて皇帝になる。

この頃は、公孫瓚の居候の身分・・

 

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反董卓連合軍エントリーNO5 孫堅文台(そんけん・ぶんだい)

孫堅

 

揚州富春県の人、元は下層階級の人だが、海賊退治で名を上げて推挙され、

黄巾賊や新興宗教の勢力を次々に鎮圧して名を上げる。

董卓が引き揚げた後の洛陽に入り、廃墟となった帝都の修理を行うが、

途中で古井戸から玉璽を発見、懐に入れてしまう。

反董卓連合軍解散後、劉表(りゅうひょう)と戦い、江夏城で

黄祖(こうそ)に敗れ戦死する。

しかし、孫策(そんさく)孫権(そんけん)と息子二人は優秀で、

孫権は後に呉を建国し皇帝になる。

この当時は長沙太守の肩書を持っている。

 

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反董卓連合軍エントリーNO6 馬騰寿成(ばとう・じゅせい)

馬騰

 

漢族の父と羌(きょう)族の母の間に生まれる、幼い頃から騎馬の術に秀でていた。

父は何らかの罪で失職して貧しく、馬騰も薪売りをして生計を立てていたと言う。

成長してからは、頻発する氐(てい)や羌族の反乱に対して、漢民族の側で

掃討作戦に従軍して功績を上げた。

子は、蜀の五虎将軍、馬超(ばちょう)、曹操暗殺に二回関与するが、

二度目には逮捕され一族もろとも処刑された。

 

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反董卓連合軍エントリーNO7 陶謙恭祖(とうけん・きょうそ)

陶謙

 

穏健な風貌で、元は文官だったが、黄巾賊退治などで手柄を立てて、

徐州に入り、事実上の支配者になる。

後年、曹操の父が陶謙の配下に殺される事件があり、曹操が報復で徐州侵攻

陶謙は曹操に歯が立たず、気に病んで病死、後を劉備が継ぐ。

この当時は、徐州牧の地位。

 

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反董卓連合軍エントリーNO8 鮑信允誠(ほうしん・いんせい)

鮑信と于禁

 

正史においては、聡明で人望厚く、董卓の危険性を事前に知り、

袁紹に早くこれを除けと進言し、若き曹操の才能を見抜くなど有能な人物だが、

演義では無能な悪人で、孫堅をライバル視し、それを出し抜こうと華雄に挑み、

弟の鮑忠(ほうちゅう)を殺されるなど散々で、最後は正史のように

青州黄巾賊に殺害されて死ぬ。

 

反董卓連合軍エントリーNO9 孔融文挙(こうゆう・ぶんきょ)

許攸 兵糧のありか教えますひひひ

 

儒教の聖人、孔子の二十世の子孫、傍系ではなく直系のエリート。

先祖の影響で儒教を尊ぶが、戦争は上手とは言えず、また、博学だが

傲岸不遜で誰にでも諫言したので、後に曹操に仕えるも疎まれ処刑される。

この当時は北海の太守だった。

 

反董卓連合軍エントリーNO10 劉岱公山(りゅうたい・こうざん)

 

 

先祖は前漢の高祖、劉邦(りゅうほう)に連なる皇族、史実では、兗州刺史として、

反董卓連合軍に参加するものの、戦もせず宴会ばかりで曹操に叱られている。

西暦192年に青州黄巾賊の百万の大軍に敗れて戦死しているが、

三国志演義では、以後も曹操配下の武将として生き続け、劉備配下の

張飛に敗れて捕えられ、曹操の元に帰されるなど駄目武将扱いである。

 

 

反董卓連合軍エントリーNO11 王匡公節(おうきょ・こうせつ)

 

 

 

兗州、泰山郡の人で、財貨を軽んじ施しを好む任侠の人だった。

史実では反董卓連合軍、河内太守として参加し、勇敢にも董卓に戦いを挑むが

董卓軍の巧みな用兵で軍が壊滅して逃走している。

三国志演義では、虎牢関の戦いで先鋒の栄誉を受けるが、

部下の方悦(ほうえつ)を呂布に一瞬で打ち取られて、

慌てて逃げ出し面目を潰した。

 

反董卓連合軍エントリーNO12 袁術公路(えんじゅつ・こうろ)

先読み袁術

 

反董卓連合軍では、異母兄弟の袁紹と同様に汝南袁氏の出身のエリート。

この当時は、郡ながら百万の人口を持つ南陽の太守であり、

兵力も袁紹と二分する位に多い、しかし、意気地がなく、小心で嫉妬深く

手柄を立てる孫堅に嫉妬して兵糧供給を止めるなど足を引っ張る役が多い。

後に、皇帝擁立問題から、袁紹と骨肉の抗争を繰り広げる。

孫堅の子、孫策から巻きあげた玉璽で皇帝を名乗るなど、三国志演義では

とことん馬鹿として描かれ、かえって潔い。

 

反董卓連合軍エントリーNO13 劉表景升(りゅうひょう・けいしょう)

 

 

前漢、景帝の第4子である魯恭(ろきょう)

劉余(りゅうよ)の子孫という皇族の末裔。

後漢末の騒乱で無政府状態の荊州に刺史として赴任して地元豪族の支持を

受けて、反乱を平定して、事実上の支配者になる。

三国志演義では、反董卓連合軍の一員として参加し、袁紹の配下のように

振る舞い、玉璽をネコババしようとしている孫堅の帰途を襲い、

玉璽を奪還するように袁紹の指示を受けて実行するが殺害に失敗。

これを恨んだ孫堅は袁術の配下として荊州に攻め込んで、戦死する事になる。

 

反董卓連合軍エントリーNO14 橋瑁元偉(きょうぼう・げんい)

 

 

豫州梁国睢陽県(よしゅう・りょうこく・すいようけん)出身の人物で、

反董卓連合軍に参加した時は東郡太守。

史実では、彼が、三公の文書を偽造して、反董卓連合軍の檄文を各地の

諸侯に飛ばしたという事になっている。

 

ただ、戦争には積極的ではなく、ただ宴会だけに現を抜かし、

曹操に叱責されても態度を改めなかった。

三国志演義では、食糧を巡り劉岱と対立し、それが原因で殺される。

 

反董卓連合軍エントリーNO15 韓馥文節(かんぷく・ぶんせつ)

 

 

史実では、後漢の宮廷に仕えていたものが、

出奔した袁紹を監視する為に董卓により、冀州牧に任命され、

その役割を忠実に果たした。

しかし、反董卓連合軍結成を呼び掛ける三公(偽物)の檄文で

迷った挙句、袁紹サイドに付く決意をしたという優柔不断な人物。

三国志演義では、冀州刺史として、董卓軍の猛将の華雄に

自軍の潘鳳(はんほう)を当たらせて、あっさり斬られてしまう。

後に袁紹に冀州を譲るように脅迫されてそれに屈し、

さらに暗殺を恐れて張邈の所に逃亡した。

 

反董卓連合軍エントリーNO16 張邈孟卓(ちょうばく・もうたく)

 

 

兗州東平郡寿張県の出身で、反董卓連合軍に参加した頃は東郡太守の地位。

曹操の無二の親友で、若い頃から男伊達で知られ、よく財産を施したので

とても人気が高い人物だった。

 

反董卓連合軍の大半は、ただ参加しただけで、まともに戦をしなかったが、

張邈は曹操の叱責に応えて軍を出すが董卓軍の徐栄(じょえい)に敗北している。

その後は、曹操の態度に不安を感じ、陳宮(ちんきゅう)の誘いで

曹操の本拠地、兗州を呂布と共に奪うが、曹操に敗れ、

最後は部下に裏切られ殺される。

 

反董卓連合軍エントリーNO17 張超孟高(ちょうちょう・もうこう)

 

 

反董卓連合軍に参加した頃は、広陵太守、兄は張邈である。

兄の張邈に従い、董卓相手にも果敢に戦うが敗戦する。

 

反董卓連合軍の解散後は、次第に強大になる曹操を恐れて、

兄と共に呂布を迎え入れて兗州を支配するが、曹操の逆襲に逢い

立て篭もっていた雍丘(ようきゅう)は陥落、張超は焼身自殺し、

張邈と張超の三族は全て、曹操に殺戮された。

 

三国志ライターkawausoの補足

kawauso 三国志

 

以上の17名が、三国志演義における、反董卓連合軍のメンバーです。

正史の三国志では、面子は少し変化して、出なくなる人、

新しく加わる人は出ますが、基本は同じ位の数と言えるでしょう。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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