三国志演義で一番有名な将軍と言えば蜀の五虎大将軍でしょう。しかし三国志初心者の人にとっては、五虎大将軍って誰?と言う風になっているかも知れません。そこで、はじさんでは、超当たり前な五虎大将軍について、可能な限り分りやすく解説したいと思います。
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この記事の目次
蜀の五虎大将軍について、ざっくり紹介
では、蜀の五虎大将軍について、ざっくり紹介していきましょう。
神になった将軍・関羽(かんう)
① 関羽雲長(かんう・うんちょう)・・・・・劉備(りゅうび)が義勇軍を旗揚げした時からの部下で義理堅く、無双な強さを誇る長い髯の武将です。
劉備のライバルである曹操(そうそう)にも一目置かれ曹操の下で働いていた時期もありますが、劉備の下に戻りました。
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実は知将だった張飛
② 張飛益徳(ちょうひ・えきとく)・・・・翼徳(よくとく)とも言われます。関羽同様に、劉備が旗揚げした時からの部下です。
武力では関羽に勝ると言われる豪傑ですが、大酒のみで単細胞、よく酒にまつわる失敗をして劉備の足を引っ張ります。
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地味だけど安定感抜群!趙雲(ちょううん)
③ 趙雲子龍(ちょううん・しりゅう)・・・・劉備が公孫瓚(こうそんさん)という群雄の下にいる時に出会います。
その後、母親の喪に服する為に劉備の下を去りますが、3年後に再会し以後は正式な劉備の配下になります。
劉備の子阿斗(あと)を守りながら、曹操軍数十万の只中をたった一騎で駆け抜けた程に度胸が据わった人物で、五虎将軍では最後まで生き残り活躍しました。
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弓矢の名人・黄忠(こうちゅう)
④ 黄忠漢升(こうちゅう・かんしょう)・・・・劉備が赤壁の戦いで孫権(そんけん)と同盟を組んで曹操を破った後、荊州南郡を攻略中に配下になります。元は、韓玄(かんげん)という長沙太守の配下でしたが、関羽と対戦して、その男気に打たれ同僚の魏延(ぎえん)と共に劉備に仕える決心をしました。
70歳を過ぎても武力が衰えず曹操の重臣、夏侯淵(かこうえん)を定軍山で斬るという大手柄を上げます。
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曹操を二度追い詰めた猛将・馬超
⑤ 馬超孟起(ばちょう・もうき)・・・・・父は西涼の軍閥、馬騰(ばとう)。劉備が蜀の劉璋(りゅうしょう)を攻めている頃に、漢中の張魯(ちょうろ)の助っ人として劉備軍に戦いを挑むが決着はつきませんでした。
孔明(こうめい)の計略で張魯の下を追い出され、結果劉備に降ります。劉備軍に入ってから後は、あまり活躍が描かれません・・
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どうして、五虎大将軍という名前なのか?
史実では、この五名を一括りで、五虎大将軍とは呼んでおらず、名称自体は、15世紀成立の三国志演義の中で登場するのが最初です。
しかし、五名を一括りにする根拠らしいものがあり、史実では、関羽が前将軍、黄忠が後将軍、馬超が左将軍、張飛が右将軍にそれぞれ任命されています。これは前後左右将軍という4名で一括りの将軍位です。
また、正史三国志の蜀書には、関張馬黄趙伝というように、5名の武将が一つの巻物にまとめられて語られています。これらからヒントを得て三国志演義の作者達は、前後左右将軍にプラスで雑号(ヒラ)将軍の趙雲を加えて五虎大将軍という名前にしたのでしょう。
三国志ライターkawausoの補足
意外ですが、五虎大将軍と言っても、五名が一堂に会した事はありません。黄忠と馬超が劉備軍に入った頃は、関羽は単独で荊州の留守を守っていて二人に会う機会はついに死ぬまで無かったからです。
そう考えると、五人揃った五虎大将軍は、ゲームの中だけという話になってしまいますね、ちょっと寂しいです。ですが、関羽は演義とは違い、史実では強いですがプライドも高い結構、嫌な人なので、新参者の黄忠や馬超と自分が、対等の将軍位である事に不満を持っていたかも知れません。
すると顔を合わせればトラブルが避けられないので、リアルな話、会わない方が良かったかも知れませんね。
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