劉備は諸葛亮を配下に加えてから大きく躍進を始めますが、その際に有能な部下たちを次々と失っています。
法正がいれば夷陵の戦いでの大敗はなかったと言われていますし、龐統が生きていれば荊州を失わなかった、あるいは諸葛亮が早逝することはなかったという話もあります。
その反面、龐統は孫権軍のスパイだという説もあり、劉備に益州を獲るよう献策したのも裏があるのだとか。
一般的には龐統が生きていれば関羽と荊州は失わなかったと言われていますが、スパイ説を前提に考えると龐統が生きていたら関羽の死は早まっていたという見方もできます。
というわけで、今回は妄想100%で龐統と関羽の死の関係性を紹介していきたいと思います。
この記事の目次
龐統という人物
龐統は南郡太守だった周瑜の功曹(人事を担当する役人)として仕えていた人物で、周瑜が逝去するとその遺体を呉へ送り届けていることからも孫権たちとの関わりが深いことが窺えます。
功曹とは官吏の採用や能力査定などを行う仕事で、鑑定眼もさることながら人脈も必要となるので郡内の名士や名族の出身者が多く担当する役職です。
龐統が周瑜に下で働く以前の話は記述がありませんが、劉表の統治下だった頃から南郡で功曹の役職にあり、曹操や孫権と統治者を変えながらもその任に就き続けていたと考えられています。
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龐統のスパイ説
そんな龐統は自身の言動や周囲の人間関係などから孫権のスパイであると言われています。例えば、劉備が最初に龐統を県令にした際、孫権の部下である魯粛から
「龐統に県令なんてふさわしくありませんよ」と取扱説明書が届いています。この件については、後に諸葛亮もフォローしていますが、なぜ魯粛が口を挟んできたのかが疑問です。
また、劉備に益州侵攻を決意させたのも龐統ですが、これまで功曹として働いていた人物が魯粛と諸葛亮の推薦があったとはいえ、いきなり軍師として従軍した経緯がわかりません。これは劉備を監視する目的があったのではないかとも言われています。
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孫権の狙い
龐統が孫権の放ったスパイであったという前提で話を進めていくと、孫権は劉備の動向を監視する理由があったことになります。
周瑜は生前に劉備を籠絡して関羽、張飛を掌中に収め、その上で益州を奪って馬超と手を組む天下二分を献策しました。
孫権は劉備がいずれコントロールできなくなると却下していますが、益州への侵攻は許可。周瑜は益州攻めの準備をしている最中にこの世を去りました。
周瑜の遺言もあって、孫権は魯粛が提案した劉備に荊州を貸し与えて力を付けさせるという方針を採用します。その結果、南郡にいた龐統はそのまま劉備の配下となったわけですが、スパイ任務を仰せつかったのはこのタイミングでしょう。
劉備が荊州を返すかわからないので保険的な意味合いで監視をさせたと考えられます。加えて、劉備は孫権からの益州へ共同で攻めようという申し出を断っているので、孫権としては「居候のくせに協力もしないし、荊州南郡だけ領有してどうするつもりだコイツら・・・」と、その後の動向も探る意図があったのかもしれません。
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孫権の益州攻略作戦
さて、ここからは完全に筆者の妄想です。
劉備の元には張松や法正といった益州を献上したい組が訪れるようになり、龐統の報告でそれを知った孫権は劉備に揺さぶりをかけるつもりで龐統に益州攻めを提案させます。
諸葛亮の当初の方針もあり、劉備はそれを採用。
「マジか、こいつ・・・」と思いながらも孫権は龐統を使って劉備の不利益になるような策を提案し、なんとか労せずに自身が益州を掌握する方向へとシフトチェンジ。
劉備が宴席で劉璋を捕らえて居たら当然益州の民は批判をするでしょうし、不安にもなります。そこへ孫権が救援目的で益州へ侵攻。悪者である劉備を討伐するのが目的なので、劉璋側も兵を貸さないわけにはいきません。
そうすることで孫権は曹操との戦線を維持しながら少ない労力で益州攻略の足がかりが作れます。仮にうまくいかなくても、劉備と劉璋が本格的に開戦すれば双方が疲弊したタイミングで出兵も可能です。
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