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諸葛亮、司馬懿のライバル?魏蜀に劣らない孫呉の軍師たち


 

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「軍師」とは

 

 

1、「大将のもとで、作戦や計略を考えめぐらす人。軍の参謀。」

2、「策略の巧みな人、策士」

(デジタル大辞泉より)

 

という役割です。

 

 

孔明と司馬懿

 

三国時代で有名な軍師と言えば、魏の「司馬懿(しばい)」、蜀の「諸葛亮(しょかつりょう)」が代表的な人物ですね。

 

孔明 郭嘉 周瑜

 

もちろん、魏や蜀に対抗する「呉」にも軍師はいました。今回の記事ではそんな「孫呉」(孫氏の呉国)の軍師たちを紹介します。なお、今回の記事では「軍師」という官職にとらわれず、「策士」という意味で紹介いたします。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫呉を代表する軍師「周瑜」

周瑜

 

周瑜(しゅうゆ)」は名門の出身で、少年の時から「孫策(そんさく)」とはとても親交が深かったといいます。孫策が挙兵した際に周瑜は私兵を率いて駆けつけ、以後孫策の領土拡大に大いに貢献。

 

周瑜と張昭に孫権を頼んだと依頼して亡くなる孫策

 

しかし、孫策は若くして亡くなり、弟の「孫権(そんけん)」が跡を継ぎます。周瑜は孫権の才能を見抜き、彼を盛り立てていくことになるのです。

周瑜

 

その後、周瑜は異民族討伐や、劉表(りゅうひょう)配下「黄祖(こうそ)」攻めで活躍し、孫呉は荊州(けいしゅう)の攻略に取り掛かります。しかし、絶大な勢力を誇る曹操(そうそう)軍が南下を開始、孫呉に圧力をかけます。

 

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呉の武将

 

 

 

赤壁で策を用いて曹操を撃破「周瑜」

周瑜とkawauso

 

孫呉では曹操に対応するための会議が開かれ、重臣たちの意見では「降伏すべき」という意見が多かったのです。しかし、周瑜は主戦論を展開し、それにはかなりの説得力や圧倒する弁舌があったといいます。

 

孫権に気に入られる孫峻

 

孫権はそれに発奮し、剣で机を斬り落とし「今後、曹操に降伏するなどと言うものはこの机と同じ目に合うと心得よ!」と重臣を鼓舞したのです。

 

むち打ちで裁かれる黄蓋

 

大軍の曹操を撃退するため、周瑜は策を練りました。それは偽装の降伏で曹操軍に近づき、密集した曹操の軍船を焼き打ちにすることでした。

 

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

作戦は成功し、この「赤壁(せきへき)の戦い」で曹操軍は大敗、天下統一は遠のき、「魏呉蜀」の三国鼎立が近づきます。

 

朝まで三国志2017追加22 周瑜

 

今後も活躍が期待された周瑜ですが、36歳の若さで亡くなってしまい、孫権は大いに悲しんだといいます。

 

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赤壁の戦い

 

 

「呉下の阿蒙」で知られる「呂蒙」

呂蒙

 

呂蒙(りょもう)」は若いころに孫策に認められ、「赤壁の戦い」など各地の戦いで戦功を上げました。しかし、彼は正式な学問をしたことはありませんでした。

 

孫権から学問を身に着けろと言われる呂蒙

 

孫権はそんな呂蒙に学問をすすめ、一念発起した呂蒙は学者も驚くほどの学識を身に着けたといいます。

 

呂蒙が賢くなり驚く魯粛

 

それを知った「魯粛(ろしゅく)」が「もう呉下(ごか)(呉の町)の阿蒙(あもう)(蒙ちゃん)とは言えないな。」と言ったことが「呉下の阿蒙」という成句につながります。

 

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呂蒙

 

 

策で関羽を破る「呂蒙」

策略が得意な呂蒙

 

呂蒙はのちに関羽(かんう)と隣接する領地に赴くことになりました。呂蒙は病気を装い任地から離れ、油断した関羽は呂蒙に対する兵力を減らし、最前線に兵力を割きました。そこを呂蒙は急襲し、難なく関羽の根拠地を占領しました。

 

指揮を取る呂蒙

 

そこで呂蒙は略奪行為を禁じ、関羽の兵士の家族、領民に手厚い援助をしました。また、詰問してきた関羽の使者も歓迎し、安定したその領土も見せたのです。関羽の部下たちはそれに安心し、すっかり戦意が喪失してしまい、関羽軍はあっけなく呂蒙軍に撃退されてしまいます。

 

関羽の呪いで殺される呂蒙

 

そして関羽を捕え斬ることに成功したのです。なお、呂蒙は関羽を斬ったせいで小説「三国志演義」等では悪者にされがちですが、策に長じた優れた武将でした。

 

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英雄の死因

 

 

「夷陵の戦い」で劉備を破る「陸遜」

陸遜

 

先述の呂蒙の関羽戦の際の陰の立役者と言えるのが「陸遜(りくそん)」です。彼は名門の出ですが、まだ無名の武将でした。しかし呂蒙に推薦され彼の後任になることになりました。

 

関羽に手紙を送る陸遜

 

陸遜は任地に赴く際、関羽に「私はまだ若造で、関羽将軍の任地近くに赴任し、御威光に接することはこの上ない幸せです。」というへりくだった手紙を送り、関羽を油断させることに成功します。

 

 

関羽を討ち取る陸遜

 

それが結果的に関羽を討つことにつながるのです。

 

陸遜

 

その後、劉備(りゅうび)は関羽の復讐のために呉征伐に動きます。そこで責任者に任命されたのが陸遜でした。

 

陸遜

 

彼は守りを固め、討って出なかったため、諸将に侮られますが、陸遜は「これは主(孫権)の命令である」と剣を抜いて叱咤し、のちには火攻めで劉備軍を撃退(夷陵(いりょう)の戦い)、皆に認められることになるのです。

 

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陸遜特集

 

夷陵の戦い

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

以上、孫呉の「軍師」3名を紹介しました。魏や蜀に比べ、活躍が地味な呉の武将たちですが、それに対抗できる優秀な武将がそろっていました。そのような人材を発掘できた孫権の見る目も優れていたのでしょうね。

 

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歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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