蜀漢が滅亡して間もなく、魏の将軍であった鍾会が姜維ら旧蜀将とともに反乱を起こしました。しかし、鍾会の反乱はわずか3日で鎮圧されます。
鎮圧の際に城外にいた魏兵が成都へ押し寄せたため、城内では略奪が行われるなど一時的な騒乱に見舞われました。この鍾会の反乱に端を発する事件を「成都大騒擾」と呼びます。騒擾とは秩序が大きく乱されるという意味です。
今回は成都大騒擾が起こった経緯と渦中の人物である鍾会、そしてその実質的な主である司馬昭の思惑と共に事件のあらましを考察していきます。
この記事の目次
鍾会が反乱に至るまで
鍾会は曹芳の代から魏に仕え、司馬師と司馬昭に重用されました。軍事関連の活躍では、諸葛誕や毌丘倹、文欽といった反乱の鎮圧に参謀として従軍しています。
特に諸葛誕の反乱の際には、計略を持って勝利に大きく貢献した人物です。
父は曹操の代から仕えていた鍾繇であり名門の出自です。また、若くして才能を認められるなど、一般的には順風満帆な人生を送ってきたように思えます。加えて、蜀漢討伐戦の功績によって三公という地位も獲得しているので、不満などはないように思えます。そんな中で鍾会は反乱を実行しました。
しかし、鍾会には魏国内部に共謀者がおらず、唯一協力していたのは姜維や張翼など元蜀漢の将軍たちです。さらに計画も甘く、最終的には機密情報が外部に漏れたことが原因で反乱が発覚するなど、とても計画性があったとは考えられません。
史書によると、鍾会は野心家であったと評価されているので、いずれ反乱を起こした可能性はあります。しかし、蜀漢滅亡というタイミングでの反乱は、衝動的な決断であった言わざるをえません。では反乱を考えた経緯、タイミングについて考察していきましょう。
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鍾会の苦悩
蜀漢討伐戦において、軍を率いていたのは鄧艾、諸葛緒、鍾会の3名。主軍は10万以上の兵を率いていた鍾会で、他の2人はともに3万の兵力だったので、鍾会の援護的な役割だったと考えられます。
作戦としては鄧艾が天水方面から、諸葛緒が祁山から南下して沓中に駐屯していた姜維を牽制。そのスキに鍾会が漢中を攻め落とすというものでした。この作戦は大きな誤算もなく成功します。
鍾会としては自分が第一の功労者であるという自信があったはずです。しかし、それは後の情勢の変化によって幻と消えます。漢中を落とした鄧艾、諸葛緒、鍾会らは、次なる目標である成都を目指して進軍。
ただ、鄧艾が漢中救援に向かった姜維を取り逃がし、後を追った諸葛緒も巻かれてしまいました。姜維は漢中へと向かいますが、その途中で救援は不可能と知って剣閣まで防衛ラインを下げることに。
姜維は張翼、廖化らと合流して剣閣で鍾会軍と対峙します。堅牢な剣閣を前に鍾会軍は一歩も進めなくなりました。
それを見た鄧艾は、陰平道という険路を抜けて、剣閣の裏側へ出る作戦を司馬昭に提案します。司馬昭はこれを却下しますが、鄧艾は命令を無視して強行軍で進軍を開始。
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鍾会の野心が動いた瞬間
ちょうどこの時、鍾会は白水の地で諸葛緒の軍と合流。鍾会は諸葛緒が怖気づいていると密告して諸葛緒を更迭すると、その軍を吸収します。そして、田章という人物に兵を与えて、鄧艾が向かう江油という場所へ向けて進軍させます。
先に江油を落としたかった鍾会ですが、田章は蜀漢軍の伏兵を破りながら進軍したため、その間に鄧艾が江油に到達。急遽現れた鄧艾軍に驚いた守将の馬邈は、驚いて降伏しました。その後、田章は鄧艾軍に編成されているので、鍾会は自身の配下を鄧艾軍に合流させることで、成都陥落時の功績を独占させないよう手を打った可能性もあります。
そして、綿竹関で諸葛瞻を破った鄧艾は、成都の目前にあるらくに至り、そこで劉禅は降伏しました。そして、その功績によって鄧艾は太尉、鍾会は司徒と同じ三公の地位が与えられます。
妥当な処置のように思えますが、名家の出身で若くしてエリート街道を歩んだ鍾会にとっては、家柄のない70歳近い鄧艾と一緒にされるのは我慢ができませんでした。この処遇を堺に、鍾会の中に反乱の意思が芽生え始めます。
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司馬昭の蜀漢討伐戦の思惑
司馬昭は蜀漢討伐を考えますが、鍾会以外の側近は反対を示しました。そのため、唯一賛同した鍾会と蜀漢攻略の計画をしますが、司馬昭の目的は漢中でした。蜀漢討伐はあくまで便宜上のもので、本当は大きな損害を出さずに、漢中が落とせれば十分だったのです。
しかし、蜀漢政権の弱体化が激しかったこと、大将軍であった姜維の権威が失墜していたなど嬉しい誤算が重なり、司馬昭は容易に目的を果たしてしまいました。
劉禅の降伏は司馬昭にとって棚ぼた、あるいは蛇足であり、どちらでも良かったと言えます。では、そもそも司馬昭はなぜ漢中を得たかったのでしょうか。
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司馬昭が精算したかった罪
260年に皇帝であった曹髦は、専横を極める司馬家を粛清するために自ら挙兵。司馬昭を討とうとわずかの配下を率いて戦闘を開始します。
しかし、準備が不足していたために、あっさり返り討ちに。とはいえ、司馬昭側も皇帝に剣を向けることは反逆罪になるので、簡単には鎮圧できません。
そこで、司馬昭の腹心である賈充が、成済という人物に罪に問わないと約束した上で曹髦を殺させました。当然、司馬昭と賈充は全ての罪を成済になすりつけ断罪します。表面的には解決したといっても、司馬昭が曹髦を殺した図式は明らかです。後の禍根を断ちたい司馬昭は、自ら帝位に就くことで皇帝殺害という黒歴史を精算しようと考えました。
もともと帝位に就くつもりだった可能性もあります。が、それまで以上に本格的に禅譲を狙うようになっていきました。とはいえ、大きな反発を防ぐために世論を見ながら慎重に事を進めたので、最終的に6回目の勅詔で晋公の位に進むことを決意しています。
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