「三国志」でその名を知らぬものはいないほどの名軍師といえば、諸葛亮孔明です。
蜀漢の丞相として、漢王朝再興の夢を求めて北伐を行う諸葛亮と、北伐を阻止しようとする宿命のライバル、司馬懿仲達の戦いは、「三国志」の終盤を飾る名場面と言えるでしょう。
しかし、「正史三国志」を紐解くと、北伐を目論む諸葛亮の最大のライバルは、司馬懿ではなく、「三国志演義」では諸葛亮の智謀の前に蹴散らされた曹真だったのです。
今回は、そんな「正史三国志」での諸葛亮と曹真の戦いについて見ていきたいと思います。
「三国志演義」と「正史三国志」で食い違う曹真という人物
曹真と聞いて、皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。吉川英治先生の『三国志』や、横山光輝先生の漫画『三国志』を読んだ方であれば、諸葛亮孔明の智謀に連敗を重ね、味方であった司馬懿にも能力の違いを見せつけられ、最後は憂いの中で憤死したかわいそうな将軍というイメージを持たれるのではないでしょうか。
確かに、これらの作品のもととなった「三国志演義」での曹真は、徹底してやられ役として描かれているので、このようなイメージが持たれるのも仕方のないことではないでしょうか。しかし、「正史三国志」を紐解くと、曹真は全く違った描かれ方をされているのです。
「正史三国志」の曹真は決して無能な将軍ではなく、むしろ魏の初代皇帝・曹丕を支えた非常に有能な将軍として記述されているのです。そこで、今回の記事ではそんな「正史三国志」における曹真と、曹真と諸葛亮の関係について見ていきたいと思います。
関連記事:曹丕が洛陽に設置した太学が20年も大して卒業生を輩出できなった理由
関連記事:太陽が昇らないのは賈詡のせい!?魏の人に嫌われていた賈詡を守る曹丕の逸話
曹真の生い立ちと出世
曹真は曹邵なる人物の息子とされていますが、この曹邵がどのような人物かはよくわかっておらず、したがって曹真がいつ生まれたかも定かでありません。曹操の親族であることは間違いないのですが、曹操と曹邵の関係は「正史三国志」には記述されていないのです。
しかし、曹邵は曹真が幼い時に亡くなったらしく、父を失った幼い曹真を哀れに思った曹操は、まるで我が子かのように曹真を育てたと言われています。
曹操の下で成長した曹真は武勇に長け、ある時には襲ってきた虎を一矢で射止めたという武勇伝も残っています。武勇に優れた曹真を曹操は気に入り、同族の曹休とともに、若くして曹操の親衛隊長に抜擢されます。そして、曹操と劉備の間で戦われた漢中争奪戦の際には早くも将軍として前線で戦っていたことが記録に残っています。このように、曹真は魏の貴公子として、輝かしい出世コースを歩んでいたのです。
関連記事:曹休が虎豹騎と呼ばれる最強部隊を率いていた?どんな部隊なの?
関連記事:曹操の親衛隊「虎豹騎」とは?曹休と曹真が所属した虎豹騎はその後どうなった?
関連記事:趙雲の一騎駆けとは?曹操軍のエリート部隊・虎豹騎をかわした漢
魏王朝を支える
220年に曹操が死去すると、曹丕がその後を継ぎ、曹丕は後漢を滅ぼして魏王朝を建国します。
魏の初代皇帝となった曹丕は曹真に絶大な信任を寄せており、曹真は鎮西将軍に任命され、魏の西方地域である雍州・涼州の2州を任されます。
雍州・涼州は都から離れた辺境地域であり、異民族の侵入や現地民の反乱、さらには2州を狙う蜀の侵攻に晒される危険な地域でした。そのような地域を任されたことからも、曹真が魏の朝廷から高い評価を受けていたことがうかがえます。
関連記事:敵対!時には戦力に。「三国志」に登場する異民族たち!
関連記事:世界史レベルの三国志!英傑たちは隣の異民族とどう付き合ったの?
諸葛亮の北伐と迎え撃つ曹真
226年に曹丕が死去すると、曹丕はまだ幼い後継者の曹叡の補佐を司馬懿、陳羣、そして曹真に任せます。この時、曹真は大将軍に任命され、魏の軍事全般を総括する要職に就いています。
曹丕の死後、まだ幼い曹叡が魏の皇帝に即位した隙をつき、蜀漢の丞相・諸葛亮は北伐を行います。228年の春に諸葛亮は自ら大軍を率いて第1次北伐を行い、諸葛亮の大軍に恐れをなした雍州の三郡(南安・天水・安定)は蜀漢に降伏し、魏の対蜀漢戦線は危機を迎えます。
この諸葛亮の第1次北伐を迎え撃った魏の将軍こそが、曹真でした。
兵力に勝る曹真はまず、長安を狙う蜀漢の猛将・趙雲の率いる部隊を、大軍をもって難なく撃退する一方、蜀漢の将である馬謖には歴戦の名将である張郃を当たらせます。
馬謖は諸葛亮の命令を無視して独断専行した挙句、張郃に包囲されて惨敗を喫します。こうして、趙雲・馬謖が敗れたことで蜀漢の第1次北伐は失敗に終わってしまいます。
諸葛亮の第1次北伐は馬謖の命令無視によって敗れ去ったイメージが強いですが、「正史三国志」を見る限り、諸葛亮を迎え撃った曹真は的確な采配で蜀漢軍を退けており、もし馬謖が命令無視をしなかったとしても、蜀漢の猛将である趙雲が敗れていることを考えれば、諸葛亮の北伐が成功していた可能性は低かったでしょう。
このように、蜀漢の馬謖のミスがあったとはいえ、曹真は諸葛亮の作戦を粉砕することに成功しているといえるでしょう。
関連記事:馬謖は処刑されていない?「泣いて馬謖を斬る」の真相に迫る!
関連記事:馬謖の山登りは王平が原因だった!陳寿が隠した真実?
諸葛亮の策を読み切った曹真
第1次北伐に敗れた諸葛亮は諦めることなく、228年の冬には捲土重来を期して再度北伐を行います。この時の作戦は、第1次北伐の際に攻めた祁山ではなく、要害の陳倉城を攻めるというものでした。
しかし、諸葛亮が陳倉城を攻めるであろうということを曹真は完全に読み切っており、部下の郝昭らを派遣して陳倉城の守りを強化していました。
郝昭は防衛戦の名人であり、わずかな兵で蜀漢の大軍から城を守り抜き、陳倉城を落とせなかった諸葛亮は魏の援軍が迫っているとの知らせを受けて撤退します。こうして、諸葛亮は2度にわたって曹真の前に敗北しているのです。2度にわたって諸葛亮の北伐を退けた曹真は230年に洛陽に凱旋し、限りない賞賛と栄誉を受けますが、惜しくもその年のうちに病死してしまいます。
蜀漢との前線を支え続けた曹真が亡くなったのち、蜀漢との戦いを引き継いだ者こそ、諸葛亮のライバルとして知られる司馬懿だったのです。
関連記事:4104名に聞きました!諸葛亮被害者の会筆頭は?孔明の度重なるハラスメントを受けた三国志人物
【北伐の真実に迫る】
三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。「正史三国志」を紐解くと、「三国志演義」とは全く異なる新しい曹真の姿が浮かび上がってきますね。
「三国志演義」では諸葛亮孔明にいいようにやられていた曹真は、史実では逆に、2度にわたって諸葛亮孔明に苦杯をなめさせているのです。こうしてみると、「三国志演義」のせいで無能というイメージがついてしまった曹真という人物は、いわば「三国志演義」の被害者といえるのではないでしょうか。
関連記事:曹真の有能ポイントはどこ?「攻め」か「守り」かそれとも?