今回は色々な方面で有名な、やはり三国志と言えばこの人!で絶対名前の挙がるであろう人物、諸葛孔明についてお話をしたいと思います。
諸葛孔明、諸葛亮と言えば三国志きってのスーパー軍師、類い稀なる知略軍略で主君を皇帝へと導き……と言われながら、
その一方でいいや過大評価だそうではない、違う違うちょっと評価の方向性が違うだけで凄まじい才覚持ちなのは確かなの!……と、三国志ファンの間でも議論尽きない人物。
今回はそんな諸葛孔明について、彼の生涯と様々な疑問についてもお話していきましょう。
この記事の目次
- 諸葛亮の人柄はどのように評価された?その性格と社会的な貢献
- 一気呵成にお答えしよう!諸葛亮孔明に対する質問集
- 諸葛亮孔明はどんな人物なのか?
- 三国志の諸葛孔明はなぜ有名ですか?
- 諸葛亮孔明は言わない方がいいですか?
- 三国志の天才軍師は誰ですか?
- 諸葛亮孔明の有名な名言は?
- 孔明の有名な戦いとは?
- 諸葛亮孔明の才能はどれほどのものか?
- 諸葛孔明はなぜ天才と称されるのか?その政略と戦術
- 諸葛亮が天才と言われる理由:北伐による影響
- 天下三分の計の理念とは?三国時代における役割と影響
- 諸葛孔明とその妻・黄夫人 その二人の関係とエピソードは?
- 諸葛亮の生涯と書生時代。そして三顧の礼とその意義
- 諸葛孔明の名言とその教訓、後世に残された評価の始まり
- 三国志ライター センのひとりごと
諸葛亮の人柄はどのように評価された?その性格と社会的な貢献
因みに諸葛亮の性格と人柄ですが、はっきりとしていません(きっぱり)。
ただこの「はっきりとしていない」というのは記録された中で明確に記されていない、ということであり、他の人物同じく様々なエピソードから窺い知れるものは多くあります。
その最たるものが「出師の表」です。
これには諸葛亮が劉備の子である劉禅に出陣にあたり奉ったもので、それには如何に人材を大事にしなければならないか、そして嘗て受けた主君への恩義と深い感謝、更にその感謝のために何としてでも漢王朝を復興させる強い誓いの念が記されています。
劉備の臨終「もしも我が子が無能ならば其方が国を治めてくれ」と願われたことを踏まえると、あくまでも諸葛亮が主君への忠義と深い感謝の念を忘れずにいた人物であることが窺い知れるでしょう。
この出師の表の話は諸葛亮の強い忠義心と責任感の表れでもあり、またあくまで家臣としてその恩に報い続けたことから、後の世でもその人柄を高く評価されることとなります。
……尚、偶にどうにも皮肉っぽい、言い回しが鼻に付く、ちょっとコイツめっちゃ頭が良いからってえらっそう過ぎない?
といった諸葛亮のイメージは、どちらかというと三国志演義で描かれる周瑜や曹真との話から生まれた気がしますが、まあこれは三国志演義で諸葛亮が異常なまでに天才軍師化した弊害とでも言っておきましょうか。
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一気呵成にお答えしよう!諸葛亮孔明に対する質問集
さてここらで三国志沼に最近どっぽーんなさった方々からの諸葛亮に対する小さな質問疑問に勝手ながらお返事したいと思います。ご興味の薄めの方はこちらは飛ばしてくださいね。
諸葛亮孔明はどんな人物なのか?
先にも触れましたが三国志の雄の一人、劉備に迎えられた人物であり、その劉備亡き後もその信念を受け継ぎ、最期まで戦い続けた人物です。
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三国志の諸葛孔明はなぜ有名ですか?
有名になった一因としてその能力の高さだけでなく、出師の表にも分かる忠義心と信念を貫き通したその生き様、それこそが後の人々の琴線に深く触れた……という理由もあります。とにかく大人気です。
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諸葛亮孔明は言わない方がいいですか?
諸葛は性、亮は名、孔明は字と呼ばれるもので、基本的に名前は姓名、もしくは姓と字で表記されます。言わない方が良い、とまでは言いませんが、姓名字という表記は一般的ではない、くらいのことを覚えておきましょう。
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三国志の天才軍師は誰ですか?
この話題は欠かせませんが、個人の観点から言うと司馬懿、陸遜、曹操、法正らへんを挙げたいですね。
まだ撤退の判断や手法では劉備も神がかっていると思います。
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諸葛亮孔明の有名な名言は?
こちらはいくつもありますが、最後に筆者が紹介したいものがありますのでそちらで紹介させて下さい。
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孔明の有名な戦いとは?
やはり赤壁の戦い、そして五丈原の戦いでしょう。
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諸葛亮孔明の才能はどれほどのものか?
こちらは長くなりそうなので、次から説明していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
諸葛孔明はなぜ天才と称されるのか?その政略と戦術
ここでまず紹介するのは「七縦七擒の計」についてです。
これは諸葛孔明が北伐を行う前にまずは南の平定を行った際に、敵対した孟獲を七度捕まえ七度放つ、七縦七擒によって彼を心服させ、決して反意を持つことをしないようにした計略と戦術から生まれた、故事の一つともなった計略です。
「人の心をつかめる人は、敵を消滅できる。古来、兵は戦を好まない」これは諸葛孔明の名言の一つですが、まず敵の心から攻める、それを理解していたからこそ用いた戦術と言えるでしょう。
まずは戦うという心をなくすこと、ある種、戦わずして勝つに通じるこの戦術は、後の世にも深く影響したと思われます、
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諸葛亮が天才と言われる理由:北伐による影響
そして何よりも諸葛孔明を「天才」と称されるに至ったと思うのが、北伐です。その結果が如何ということではありません。
幾度もに渡る戦争を、しかも仕掛ける側、更にはあの蜀の地から大国にしかける、それを続ける……これは並大抵のことではありません。
そもそも大きく勝利したことが殆どない、しかし戦争を続けられる……これは、蜀の国が疲弊していないことを意味します。
『袁子』の中でもこの一件について「諸葛亮の統治により田畑は開墾され、米倉は満ちあふれ、道には酔っ払うものもいなかった」と記されているように、蜀の人々の生活が乱れることはありませんでした。
これは三国志の中でも高く評価され、諸葛孔明を天才「政治家」と評す人々が多いのはそのためです。
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【北伐の真実に迫る】
天下三分の計の理念とは?三国時代における役割と影響
こちらで諸葛孔明が劉備に説いた、天下三分の計についても触れましょう。
劉備の最大の目的は漢王室の復興です、しかし、当時の劉備に既に強大となった曹操と真正面からぶつかることについて、諸葛孔明が述べたのがこちらの天下三分の計でした。
これは簡単に言うと「曹操は強大なので真正面から戦うな。孫権らと手を組んで守りを固めつつ曹操を抑え、荊州と益州という重要拠点を手に入れて対抗しましょう」というものです。
これは「天下を三つに分けて拮抗状態にする」という通過点を持ち、更にはそこから劉備が天下に至るまでの道筋を描いたものでした。
ただ拮抗に留まることなく、その先まで見据えて伝えたのが諸葛孔明の戦略的な考え方の凄まじさと言えるでしょう。
事実、この後の赤壁の戦いで孫権と劉備は協力することにより曹操に大打撃を与え、一時的に曹操を抑えた後、劉備は荊州と益州を手に入れています。
ある意味、赤壁の戦いすらも曹操を抑えるための手段でしかなかったとも言えますが、後に、この戦略の重要な要である荊州を劉備は失ってしまいます。
これにより天下三分の計はあくまで「三国時代」を作るまでで終焉してしまったのが、劉備と諸葛亮の不運、と言えるかもしれません。
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諸葛孔明とその妻・黄夫人 その二人の関係とエピソードは?
ここでちょっと諸葛孔明の過程関係に触れてみましょうか。
諸葛孔明の妻と言えば黄夫人(黄月英)です、この夫人、残念ながら本名は分かりません。
ただ「襄陽記」によると父・黄承彦が「娘は金髪で色黒肌だけど頭が良くて君とお似合いだよ!」と言ってきたので孔明はこれを承知、しかし当時の人々は「孔明の嫁選びを真似るな、醜い娘をもらう羽目になるぞ」と詩にまで歌ったとまで書かれています。
その一方で、不美人とされたけど美人説、当時の感覚が今とは違った説、三国志演義のようにとても賢い女性だった説など、様々な憶測を経ていますね。
残念ながら二人のエピソードなどは記されてはいませんが、記されていないということは逆にあの諸葛孔明を最期まで問題なく支えられたのならやはり賢い女性だったのでは?というのが個人的観測です。
また醜女説は日本でも高橋紹運などでも多く見られるように「そんな相手でも娶った旦那さんはすばらしい!」というイメージが強いのもあり、これはちょっと後出し的なエピソード付けでは?と穿った目をしてしまう筆者でした。
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諸葛亮の生涯と書生時代。そして三顧の礼とその意義
その諸葛孔明の生涯ですが、幼い頃はかなり苦労したようです。幼い頃に恐らく父親と実母を亡くし、徐州から弟と共に叔父に連れられて南方に移住しています。この叔父である諸葛玄ですが、一説には民衆に殺されたともあり、その後は弟、諸葛均と暮らしていたとされます……当時が、かなり荒れた戦乱の世であったことを伺わせますね。
しかしその一方で、水鏡先生に学んで知略を深めながら誰に仕えることもなく晴耕雨読の日々を過ごし、自らを管仲・楽毅に比類すると豪語、名士・黄承彦の娘を妻にしたことで蔡瑁や劉表とも縁続き、姉はホウ徳公の妻になって、お兄ちゃんの諸葛瑾は孫呉で孫権にめっちゃ気に入られている……と、かなり恵まれた立場でもありました。
まあそういう立場だったからこそ誰にも仕えなくても生活できていたのでは……とも言えますが、もしかしたら彼自身、乱世という世の中を忌避していたのかもしれませんね。
しかしその時代は突如終わりを迎えます。
それこそが三顧の礼、高位の人物が礼節をもって相手を迎えることを意味していますが、これこそがこの無名の諸葛亮という人物に、劉玄徳が行った礼儀です。
そしてこれは諸葛亮の心の奥底まで刻まれ、出師表にまで刻まれることとなります。
これこそが、諸葛孔明を変えた……パラダイムシフト、とも言える瞬間だったのではないでしょうか。
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諸葛孔明の名言とその教訓、後世に残された評価の始まり
ここで最後に、諸葛孔明の名言をご紹介します。
「天下は一人の天下にあらず、すなわち天下の人の天下である」
諸葛孔明は嘗て、小さな庵で世俗から離れた世界にいました。その諸葛孔明が天下を取らせようと、そしてその死後、傾かせることはなかったとはいえ、どこまでも北伐に至ったのは何のためか。言葉の意味だけを追うならば、天下は誰を天子とするかは関係はありません。そこに生きる人々こそが大事であり、大事にするべきなのです。
しかし、諸葛孔明はそれでなお、愚直に北伐を繰り返し、魏という大国に挑み続けました。別の観点で言えば、死人に動かされる愚かな行動であったのかもしれません。
ですがそれでも、諸葛孔明は嘗ての庵での礼を忘れることは生涯なかった、その証明こそが最後まで成し遂げることのなかった北伐であったのならば。その行為にこそ、後世の人々は強い感動とロマンを見たのではないでしょうか。
天才軍師とまで言われた諸葛孔明、その生涯をかけて挑み続けた夢。だからこそ人々は諸葛孔明という人物に時代を超えて尚、感銘を抱くのだと思います。
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三国志ライター センのひとりごと
諸葛亮、実際に多くの苦難を繰り広げ、そして切り拓いた知略、それは確かなのですが。同時に諸葛孔明という人物に惹かれるのは、天才軍略とか、政治の手腕だとか、そういった能力に留まらないのではないか、というのが筆者の考えです。
寧ろ天才な部分ではなく、三国志末期のめちゃくちゃ苦労している瞬間、あの諸葛孔明を見ている時が筆者なんかは一番「高ぶり」を覚えてしまうのですが、皆様はどうでしょうか。もしもまだ三国志沼にどっぼんしたばかり!という人は、ぜひ諸葛孔明という人物に注目してみて下さい。そうしてどういう部分が好ましいか、そういう面からも見てみて下さい。
それもまた、三国志沼への第一歩ですよ。どっぼーん。
参考:蜀書先主伝 諸葛亮伝
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