三国志の後半の主人公、諸葛亮孔明は(しょかつりょう・こうめい)
西暦181年に生まれます。
黄巾の乱の時には、僅かに3歳で、戦乱を逃れて、家族と共に、
荊州の劉表(りゅうひょう)の下へと流れついていました。
孔明の兄は諸葛瑾(しょかつきん)といい、
年が離れていて呉の孫権(そんけん)に仕えていましたが、
弟の孔明は、積極的に仕官する事もなく山深い農村で晴耕雨読の日々を送ります。
前回記事:56話:水鏡先生との出会い。劉備に足りない人材って誰の事?
この記事の目次
若い頃の孔明はどんな思想をしてたの?
孔明自身は、若い頃は自身を春秋戦国時代の名将軍、
管仲(かんちゅう)や楽毅(がくき)になぞらえて
大きな野心を持っていたようですが、その才能を認めているのは、
旧友の徐庶(じょしょ)や司馬徽(しばき)のような一部の人間のみで
多くの仲間は、「理想ばかりが高い変わり者」と馬鹿にしていました。
多くの仲間が仕えるが孔明は誰にも使えず
多くの仲間や兄弟達が、曹操(そうそう)や、劉表(りゅうひょう)
孫権(そんけん)に仕える中で、孔明が、仕官に熱心でなかったのは、
やはり自分が納得できる君主に仕えたいという理想があったからでしょう。
もし曹操に孔明が仕えてたらどうなってたか?
もし、曹操に仕えていたなら、孔明は、荀彧(じゅんいく)や郭嘉(かくか)
程昱(ていいく)の影に隠れて歴史に名を残す機会は無かったかも知れません。
孔明、28歳の時、彼の運命は大きく動きます。
旧友の徐庶が劉備に仕え、彼の口から臥龍(ふくりゅう)と呼ばれた
孔明の事が、劉備に伝わったのです。
劉備は、徐庶に、孔明を呼んできてもらいたいと頼みますが、
孔明の性格を知りぬいている徐庶は、
「孔明は私が頼んだ位で、のこのこやってくるような
小物ではありません、是非、ご自身で尋ねて下さいますよう、、」
と劉備に釘を刺しています。
劉備は、自分が奢り高ぶっていた事を反省して、曹操の奸計で
劉備の下を離れた徐庶に代わる軍師として孔明の庵を尋ねるのです。
劉備は桃園三兄弟を連れて孔明に会いに行く
劉備は関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)と連れだって孔明の庵を尋ねます。
時に劉備は47歳、孔明は27歳、当時の常識から見れば、
親子程も年が離れた若僧に年長者が会いにいくとは前代未聞でした。
しかも、運が悪い事に、劉備が二度尋ねても孔明は留守でした。
関羽と張飛は苛立ち、劉備に苦言を呈します。
「孔明がどんだけ偉いか知らないが、
たかだか、28歳の小僧に、どうして兄者が頭を下げないといけない?
城に呼び付けてしまえばいいではないか!!」
しかし、劉備はこのような苦言にも珍しく首を横に振ります。
「いや、私にとって孔明は、どうしても必要な人材だ、、
会えるまで、何回でも通う、お前達、堪えてくれ」
と聞く耳を持ちませんでした。
そして、3回目、劉備一行はようやく、孔明が庵に居る時に
尋ねる事が出来ました。
遂に劉備達は孔明に出逢うが・・・
ところが、孔明は昼寝の最中でした。
孔明の弟の諸葛均(しょかつきん)は「起こしましょうか?」
と気を使いましたが、劉備は「起きるまでお待ちする」と答えました。
それから数時間、孔明はようやく目覚めて、
玄関に人影があるのを見つけます。
「均よ、来客か?どうして起こしてくれなかった?」
孔明が弟に問うと、
「いえ、そう言ったのですが、劉備様は
兄上が起きるまで待つと仰っしゃられたので、」
と均は答えます。
孔明はバツが悪くなり、劉備と会う事を余儀なくされました。
孔明は劉備と対話に応じるが・・・・
劉備に会った孔明ですが、劉備が期待しているような返事はしませんでした。
「すでに天下の趨勢は曹操の下に結集しつつあります、、
これから劉備殿が、どう頑張った所で全てが手遅れです。
私に期待して尋ねてくれたのは、有り難いのですが、、
このような事情ですから、劉備殿のお役には立てません」
孔明は決して、意地悪で言っているのではなく、
当時の知識人が当然に思っていた事を正直に言ったに
過ぎませんでした。
劉備はそのアドバイスを聞いてメソメソ泣く
すると劉備は、孔明の目の前でハラハラと涙を流しました。
「黄巾の乱以来、二十余年、、ただ、漢室を支え、
その再興を願い戦って参りましたが、
この劉備が非才・非力故に、遂に逆臣曹操に、
漢の天下を奪われる結果に終わり、我ながら情けない次第です、、」
孔明は、その劉備の涙に驚きます。
才智が回る彼は、人間が自分の野心を覆い隠す為に、
大義だの正義だのを口にして人を欺くのを嫌と言うほどに
見てきました。
しかし、目の前の劉備は、そのような汚れた連中とは違う
本当に漢の行く末を憂い、それを救えない事を自分の責任と考え
涙を流している、誠の心を持った英雄だと思ったのです。
孔明は劉備に感激して壮大な計略を伝える
そこで、自身がかねてより考えていた壮大な計略を孔明は、
劉備に語ります、それが「天下三分の計」です。
当時の中国には、益州(えきしゅう)・巴蜀(はしょく)の地という、
曹操、孫権、いずれの手も届いていない辺境の土地がありました。
そこには、劉璋(りゅうしょう)という太守がいましたが、
凡庸な人物であり、いずれ、孫権か曹操に吸収される事は目に見えていました。
「劉備殿が、荊州を土台に、益州に入り、劉璋を排除して、
天然の要害である巴蜀を抑えれば、曹操を倒せないまでも、
孫権と同盟を結ぶ事で、これに伍する事は充分に可能です。
こうして、国力を養い、隙を見て曹操の領地に攻め込めば
或いは、曹操を破り、漢の天下を回復できるやも知れません」
劉備は、それを聞くや、大きく喜びました。
感激した劉備は孔明に軍師になって欲しいとお願いをする
「その計略を是非、我が軍で実現して頂けないでしょうか?
この通り、劉備、伏してお願い申し上げる、、」
諸葛亮は、劉備の頼みを断り切れず、ついに長い隠遁生活に
終わりを告げて、庵を出たのです。
これを孔明の出蘆(しゅつろ)と言います。
もし孔明が劉備のオファーを断ったらどうなってた?
人を動かすのは、プランより何より、情熱であるという典型の話ですが、
もし、それでも孔明が劉備に仕えるのをNOと言ったら、
張飛が決して黙っていなかったでしょうね(笑)
孔明が昼寝をしていると聞いた張飛は、
「では、庵に火を掛けて、嫌でも起きるようにしてやる」と
怒鳴って劉備と関羽に止められたのですから、、
耳で聞いて覚える三国志
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