ゼロからはじめる三国志、5秒でわかる三国志、通称0353のコーナーです。
今回のテーマは蜀の天才軍師「諸葛亮孔明」です。
三国志初心者のあなたも、以下の3つのキーワードを覚えておくだけで
諸葛亮孔明について語ることができますよ!
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この記事の目次
諸葛亮孔明のアダ名は「伏竜」あるいは 「臥竜」
諸葛亮孔明は、
・姓:諸葛(しょかつ)
・諱(いみな):亮(りょう)
・字(あざな):孔明(こうめい)
全部合わせて諸葛亮孔明が名前です。
「諸葛亮」と呼ぶ人もいれば、「諸葛孔明」と呼ぶ人もいます。ここでは「諸葛亮孔明」で統一します。
・あだな:「伏竜」または「臥竜」
・生没年:(西暦)181年~234年
次に諸葛亮孔明を知る3つのキーワードをご紹介!
諸葛孔明と言えば、三顧の礼(さんこのれい)
207年、劉備は自軍の軍師として孔明を迎えたいと願い、諸葛亮の住む草廬を訪れます。
ちなみに難しい漢字を使う「草廬」ですが、草ぶきの粗末な家という意味です。
一度目、二度目共に孔明は留守でしたが劉備はあきらめず、三度目にようやく孔明に会うことができました。孔明は劉備の熱意にうたれ、劉備に仕えることを承諾します。
以上のように、目上の者が目下の者に礼を尽くして三度も出向いて頼むということを「三顧の礼」といいます。
日本史でも、戦国時代に羽柴秀吉が軍師竹中半兵衛を自軍に迎え入れる際、三顧の礼で迎えました。
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諸葛亮と言えば、天下三分の計(てんかさんぶんのけい)
孔明は劉備に、これからの中原を治めるすべとして「天下三分の計」という知恵を授けます。
現在、天下は華北を治めた曹操孟徳と河南の孫権仲謀が二大勢力でしたが、曹操が南下して孫権を倒せば、劉備の活躍の場はなくなってしまいます。
そこで、劉備が荊州と益州を手に入れることで、曹操・孫権・劉備の三大勢力の力を拮抗させ、天下を三人で治めるという案でした。
劉備は、まさにこれこそが漢王室を救う唯一にして絶対の方法だと確信し、孔明と共に道を歩んでいきます。
魯粛の天下三分の計
ちなみに、この天下三分の計ですが、呉の軍師・魯粛も同様の考えを同時期に持っていました。
死せる孔明、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす
234年、すでに劉備は亡く、息子劉禅の時代になっています。
孔明はこのとき北伐といって、長らく魏と戦い続けていました。
その時の魏軍の武将で、孔明の最大のライバルとして描かれるのは司馬懿仲達といいます。
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ちなみに孔明のライバルは司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)
孔明同様、珍しい二文字姓です。ここでは仲達と呼びます。
諸葛亮孔明は戦のさなか、星を読み、自分の死期が近いことを知ります。
そこで諸葛亮孔明は自軍に撤退の策を授け、自分に似せた身代わり人形を作らせます。
孔明の死後、蜀軍は撤退し、仲達は当然のごとく追撃をしてきました。
仲達はすでに孔明が死んだとの情報を手に入れていたからです。
しかしそこへ、車いすに乗った孔明が現れます。これは人形だったわけなのですが、仲達は「孔明の罠だ! 奴は死んでなんかいなかった」といって慌てて逃げ出すのです。
これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす」です。
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武田信玄も死を隠す
じつは、日本史でも同様の計略があります。
戦国武将の武田信玄は臨終の際、自らの死を三年間隠すことを指示し変わらずに「風林火山」の旗を使用させました。
諸葛孔明は貧乏だった?(kawa註)2018/11/15 追記
劉備の息子の劉禅を補佐して、事実上の蜀の支配者として政治と軍事を切り盛りした孔明。
本当なら、これだけの権力があれば賄賂でも何でも取り放題で大金持ちになれそうですが、意外な事に孔明は貧乏でした。
孔明は劉禅に自分の財産として桑を800株、痩せ田が15傾あり、食べるには困らないし、仕事上必要な手当は十分受け取っており、家にはめぼしい財産とてなく、死んでから隠し財産が出てきたりして、陛下にご迷惑をかける事はありません。
このように語り自分に財産がない事を誇っているのです。
どうして、諸葛孔明が貧乏自慢をしていたかと言うと、蜀の国が実力に見合わない戦争を魏に仕掛けていて、その分、蜀の人民に重い税金を掛けていたからでした。
人民には重税を掛けて、孔明一人が大金持ちでは誰も納得しないですし、孔明を信用して全てを任せた劉禅が人民に侮られてバカにされてしまうでしょう。
孔明は、人民と同様に私も財産は蓄えておりません、同じく慎ましく倹約していると言いたかったのです。
赤壁の戦いと諸葛亮孔明
劉備・孫権連合軍と曹操軍が「赤壁」の地で激突した戦い。この戦に諸葛亮孔明も陰ながら参戦しています。
劉備が夏口(現在の湖北省漢口)へと到着すると諸葛亮孔明は「事態は急を要する。私は江東の孫権の元へ行き、助けを求めましょう」と言い残します。
当時、孫権軍は柴桑(現在の江西省九江)に軍を展開、戦局を見守っていました。諸葛亮孔明が柴桑に着くと孫権と会い、現在の状況を説明。ある軍事作戦を提案します。
「孫権殿が東で兵を挙げてくれれば、私ども劉備軍は漢水の南に集結。曹操から天下を奪いとることができましょう」当時の曹操軍の勢いは凄まじく、北方をすでに制圧、南下して荊州を破り、世間を震撼させました。劉備軍は立ち向かうことができず、やむなく逃げてきたのです。
続けて、諸葛亮孔明は2つの選択肢を提示。「もし連合軍が実現すれば曹操軍を打ち破ることができるでしょう。しかし、叶わなければ、我々は曹操軍の一大臣にまでグレードダウンしてしまいます」
すると孫権がなぜ劉備軍は降参しないのかと反論。これに対し、諸葛亮孔明は「劉備様は地位が高く、投降などということは全く考えていない」と劉備の強さをあえて強調。孫権は怒りましたが、劉備軍のヒットポイントがどれほどか計れない以上、こちらに攻められては困ると心配します。
孫権が冷静になって、分析し直すと
1.曹操軍は劉備軍を追って相当体力を消耗している。そして夜通し追いかけてきたのだろうから、兵も士気が下がっているはず。
2.北の曹操軍は水に不慣れである。よって、劉備軍と我が孫権軍の水軍をもってすれば、打倒曹操も不可能ではないという結論に達します。
ほどなく孫権軍は周瑜、程普、鲁粛と3万の水軍を赤壁へと派遣。両軍はついに砲門を開きます。
一方の諸葛亮孔明は軍を率いて親玉・劉備と合流、ほどなく曹操軍は黄蓋の「火攻め」によってひん死のダメージを受けます。
追い打ちをかけるように兵士の間で流行病も蔓延して、曹操は北へ撤退を開始します。ここに劉備・孫権連合軍の勝利が確定したのです。このように劉備・孫権連合軍の橋渡し役を行ったのは口が達者な諸葛亮孔明。現在の外務大臣のような存在として赤壁の戦いに加わっていたのです。
荊南四郡を奪取する諸葛亮
赤壁の戦いは映画にもなりましたが、実はその後があります。曹操が北に遁走したということは荊州の地を取るチャンスでした。
そこで劉備軍は「荊南四郡」を奪ってしまおうと画策します。西暦208年のことでした。
まず劉備は諸葛亮孔明の地位を「軍師・中郎将」にまで上げてやります。ついに諸葛亮孔明、レベルアップです。権力を握った諸葛亮孔明は「零陵」、「桂陽」、「長沙」の税収をちょろまかし、軍資金を調達します。
しかし、劉備はホウ統を耒陽令に留め、役職を与えませんでした。
そこで、諸葛亮孔明は「彼は大物の予感がする。昇進させるべきでしょう」とアドバイスすると劉備は諸葛亮孔明と同じ軍師・中郎将に任命。
諸葛亮孔明の予想は的中し、ホウ統は才能を遺憾なく発揮するのでした。
西暦211年。益州牧(市長のようなもの)の劉璋がおどおどしているうちに劉備軍は荊州に進軍。益州の地が射程圏内に入ります。北朝鮮にとっての日本海のようなものです。
すると諸葛亮孔明が劉備に進言。
「今がチャンスです。荊州を関羽・張飛・趙雲にまかせ、ホウ統を連れて大将自ら益州に乗り込みましょう」
ほどなく大将・劉備は益州入城を果たします。劉璋は部下が劉備のスパイと思い、処刑。
劉備と劉璋は仲たがいし、これを理由に劉備軍は成都へと攻め込みます。西暦214年。劉備が成都へ入ったことを聞いた諸葛亮孔明。
戦いの最中、仲間のホウ統が流れ矢によって命を落とします。
荊州を守っていた関羽・張飛・趙雲は劉備と合流し、成都を完全に制圧。劉璋は敗北します。
こうした成果の影には諸葛亮孔明の軍事作戦がありました。その結果、彼は「金250キログラム、銀500キログラム、そして50万両に錦」まで劉備から授かります。そして役職は「軍師将軍」となり、劉備が出兵するときは成都の防御を任されるまでに出世します。
事実上、国家の首都をまかされたようなものですから、現代でいうところの東京都知事ぐらい有名な人物でした。諸葛亮孔明、2回目のレベルアップです。
西暦217年。
兵力を回復した曹操が満を持して漢中へと進軍、漢中は益州の目と鼻の間です。曹操軍と劉備軍とのバトルは避けられませんでした。
このとき諸葛亮孔明はこんな詩を詠んでいます。「男子は戦場、女子は運に恵まれている」と軍師ながら戦うしかない状況を嘆いています。あわよくば戦わずして勝利を得たかったのでしょう。
西暦219年。漢中の戦いは劉備軍がビクトリーで幕を閉じます。
劉備は自ら「漢中王」を名乗り、諸葛亮孔明の軍事作戦は成功裡に終わりました。
南蛮討伐のリーダーになった孔明!
西暦225年の春。諸葛亮孔明は南蛮討伐へと向かいます。ここまで来ると大佐クラスです。アメリカ合衆国大統領も一目置くような存在です。そのうえ劉禅から「黄金の武器と鎧に音楽隊、そして60人の精鋭」までプレゼントされます。
そして不毛の地で孟獲らとやり合います。そこでは馬謖を使うことを提案。南蛮を武力ではなく心理作戦で治めることにします。
孟獲を捕らえては放すということを7回も繰り返し、ついに万策尽きたというところまで孟獲を追い込むのです。12月にほぼ南蛮を平定した諸葛亮孔明、無事に成都へ帰還を果たします。こうして北伐の基礎固めが整いました。
諸葛亮孔明 VS 司馬懿
北伐の契機は魏の皇帝・曹丕の死でした。
子の曹叡が後を継いだものの経験が浅く、魏を統治しきれないと諸葛亮孔明は踏んだのです。
西暦229年の春。諸葛亮孔明は陳式を武都(現在の甘粛省成県)と陽平(現在の甘粛省文県)に派遣します。そこを治めていた郭淮は兵を救出し、撤退。陳式は2つのエリアを獲得します。
翌年の秋、魏軍が漢中へと攻めてきます。
漢中は曹操が取ろうとして劉備に取られた場所、魏軍としては喉から手が出るほど欲しい要衝の地だったのです。
魏軍の司馬懿は西から攻め、諸葛亮孔明は籠城作戦をチョイス。このとき、大雨が30日に渡って降り続け、魏軍はやむなく撤退します。
同じ年、諸葛亮孔明は魏延と呉懿を派遣し、魏軍の費曜と郭淮を倒します。なんと漢中を取りにいったはずの魏軍は、諸葛亮孔明によって返り討ちに遭ってしまうのです。続けて、魏延、高翔、呉班の三人を派遣。司馬懿に追い打ちを駆けます。
ところが、今度は諸葛亮孔明が天に召されてしまいます。世にいう五丈原の戦いです。こうして諸葛亮孔明は軍師だけでなく、将軍としても十分に役割を発揮し、死後をも司馬懿を怖がらせる存在とした世に語り継がれます。
諸葛亮孔明はどのように埋葬されたのか?
蜀軍が成都に戻ると劉禅は諸葛亮孔明を「忠武侯」に任命します。日本の警察でもよくある殉職による二階級特進です。
本人の遺言により、遺体は漢中の定軍山に埋葬されます。墓が造られ、棺はその下に収められました。諸葛亮孔明は生まれが貧しく、大した財産もありませんでした。800株の桑の木と小さな土地があるだけ。衣服は朝廷から支給されていましたから、自給自足できたのです。
彼は死ぬ間際にあって、服は普段着でよい。豪華な着物はいらない。穴を掘って、棺をそっと収めてくれれば、それでいいと言ったそうです。しかし、蜀の各地では「諸葛亮孔明廟」が建てられ、崇められました。時期になると地元の農民たちがお祭りを開き、諸葛亮孔明の死を弔いました。
蜀の法整備を実施
軍師として名高い諸葛亮孔明ですが、蜀の法整備にも力を入れていました。劉備が漢中王となって以来、法による支配を実施。特に刑罰に関しては厳格で、何も定めずにむやみに処刑を行えば民の反感を買うとして注意を払いました。
刑の執行に際しても慎重でなるべく長い猶予を与えるよう努力したそうです。法が乱れれば、政治も乱れ、国内は混乱に陥ると考えたからです。しっかりとした法整備することで民も安心して暮らせるようになるという思想が彼のシナプスとニューロンにあったのです。
コードネーム諸葛亮孔明、その軍事作戦とは?
諸葛亮孔明は軍によって治めるとき注意していたポイントがあります。それが道徳的思想です。
道徳的に正しい方向で戦略を練らなければ、必ず失敗すると考えていたのです。攻めるにも守るにもそれなりの大義がなければ、ただのクーデターになってしまいます。
曹操に対抗し、孫権と手を組んだ赤壁の戦いでも筋の通った理論を展開していたからこそ、孫権を仲間に加えることができたのです。頭が切れる人物でないと外交は務まらないという証でしょう。
参考:
正史三国志/陳寿・[注]裴松之
諸葛孔明/植村清二
諸葛孔明上・下/陳舜臣
三国志人物事典/渡部精一
三国志ビジュアル百科/渡邉義浩
三国志/吉川英治
※本記事は、東方明珠が執筆を担当しました。
2018年11月15日にkawauso編集長が注釈を加えました。
2019年6月17日上海くじらが注釈を加えました。
関連記事:天才軍師の条件ってなに?諸葛亮孔明・司馬懿仲達・黒田官兵衛・大村益次郎に共通している条件とは?