三国志において官渡の戦い以降、曹操は強大な勢力を持っており最も天下統一に近い存在でした。
それを支えたのが豊富な人材であり智においては優れた文官、勇においては勇猛な武将が数多くいました。
そんな豊富な人材の獲得に貢献したのが人材ハンターである荀彧であり優秀な人材を曹操に推挙しそれぞれが魏の柱として成長、活躍します。そんな荀彧ですが彼自身も優秀な文官であり彼の助言により曹操は幾度も救われます。
今回はそんな荀彧の軍師としての活躍を紹介します。
イメージ違う!?本来の軍師の役割
軍師というと周瑜や諸葛亮のように先陣で指揮をとり様々な計略を立てて軍を動かすようなイメージがありますが本来軍師は主君の指揮を補佐するのが本来の役割です。
しかし周瑜や諸葛亮は孫権や劉備から軍を一任されていたため先頭に立って軍を指揮するというイメージがついています。
一方魏の主君は曹操であり策略家として知られ様々な計略を自分で立て実行し場面場面の判断も行います。そのため魏では曹操が戦場で指揮を執りそれを文官が補佐するという形になっておりこれが本来の姿です。
そのため荀彧は細かな戦術や兵の動かし方を指示するのではなく大きなはかりで戦局を見定め曹操に助言をしています。
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真の軍師 一言の助言で大勝に導いた荀彧
荀彧が軍師としての輝きを強く放ったのが官渡の戦いです。
当時の曹操は呂布・袁術・李カクらを下し199年には兗州・豫州・司隸・徐州を統一。
さらに長安で起きた内戦から洛陽へ逃げ延びていた献帝を手中に収めたことで自身も三公である司空となっていました。
一方の袁紹も199年には公孫瓚を討ち冀州・青州・并州・幽州の四州を支配しており両者にとって天下統一を行うにあたり最大の敵となっていました。
大方の予想としては袁紹が有利との見方が多く曹操は不利な情勢でした。その理由として曹操軍は連日の戦で兵士の士気も低下し兵糧も少ない状態である一方の袁紹は富国強兵に努めており兵糧十分、兵士の士気も高まっていたためです。
そして200年に袁紹が曹操討伐の意思を明らかにし河南侵攻を開始します。そんな中で曹操の陣営では和睦か決戦かという議論が繰り広げられます。
孔融は「袁紹は広大で豊かな土地を持っておりここ数年兵糧を蓄え士気、知略面でも許攸・田豊・審配らが居て顔良・文醜という勇猛果敢な武将もおります。
以上の点から袁紹軍との決戦は避けるべき」との進言をします。
それに対して荀彧は「田豊は上に逆らい、許攸は貪欲で傲慢、審配は独断的で計画性がなく武将の顔良と文醜は武力のみであり将としての度量はない。そのため主君が負けることはない」と助言しこの言葉を大いに喜んだ曹操は開戦を決意します。
その結果曹操は不利と言われていた官渡の戦いで勝利しその勢いのまま袁一族を滅ぼし天下の一大勢力となります。もしこの時に開戦決意せず袁紹がさらに勢力を拡大したなら曹操が勝つことはより困難となっていたでしょう。
このように荀彧は物事全体を正確に判断し曹操に進言することができました。これが王佐の才と言われる所以ではないでしょうか。
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荊州攻め! 天をも味方につけた荀彧
官渡の戦いで勝利した後袁紹にとどめを刺すべく東平郡の安平県で兵糧を集めます。しかし連日の戦から兵糧は足りず曹操は袁紹を追撃することをあきらめ、荊州の劉表を攻めることを考えます。
このことを荀彧に相談すると荀彧は「今袁紹の軍は先の戦いの敗北で混乱し士気は下がり袁紹に対して不信感が出ています。この機に乗じて一気に平定するべきです。
この好機を捨て荊州を攻めるとなると袁紹が軍をまとめ直した場合我々は背後を突かれることとなります」と説き曹操もこれに従い袁紹への追撃を決意します。その結果曹操は204年に無事冀州を平定し冀州牧に就任します。
その後曹操は208年に荊州への進軍を行うと荊州を治めていた劉表が没し後継者となった息子の劉琮は曹操へ全面降伏しいとも簡単に荊州を手に入れます。
仮に荀彧の進言なく官渡の戦い後、荊州を攻めていれば戦となり数多の兵を失い最悪袁紹に背後を突かれ官渡の戦いでの大勝を帳消しにするほどの大損害を受けていたでしょう。
荀彧の言葉一つで冀州を平定、さらには荊州を得ることができたことを考えると軍師として一言で大きな成果を上げることができる非常に稀な存在であると言えるでしょう。
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三国志ライター ボス吉の独り言
荀彧は自ら戦の策略を立てたり軍を指揮したりすることはしません。その広い視野と深い思考により大局を判断して曹操に助言を行い正しい方向に導いていきます。
また荀彧は人を見る目がありそれは人材の推挙という点だけでなく敵軍の人材分析においても同様です。
王佐の才と言われたその才をいかんなく発揮し曹操を天下人へと押し上げた荀彧は軍師としても優秀な人物であったと言えるのではないでしょうか。
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