「軍師」とは
1、「大将のもとで、作戦や計略を考えめぐらす人。軍の参謀。」
2、「策略の巧みな人、策士」
(デジタル大辞泉より)
という役割です。
三国時代で有名な軍師と言えば、魏の「司馬懿」、蜀の「諸葛亮」が代表的な人物ですね。
もちろん、魏や蜀に対抗する「呉」にも軍師はいました。今回の記事ではそんな「孫呉」(孫氏の呉国)の軍師たちを紹介します。なお、今回の記事では「軍師」という官職にとらわれず、「策士」という意味で紹介いたします。
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孫呉を代表する軍師「周瑜」
「周瑜」は名門の出身で、少年の時から「孫策」とはとても親交が深かったといいます。孫策が挙兵した際に周瑜は私兵を率いて駆けつけ、以後孫策の領土拡大に大いに貢献。
しかし、孫策は若くして亡くなり、弟の「孫権」が跡を継ぎます。周瑜は孫権の才能を見抜き、彼を盛り立てていくことになるのです。
その後、周瑜は異民族討伐や、劉表配下「黄祖」攻めで活躍し、孫呉は荊州の攻略に取り掛かります。しかし、絶大な勢力を誇る曹操軍が南下を開始、孫呉に圧力をかけます。
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赤壁で策を用いて曹操を撃破「周瑜」
孫呉では曹操に対応するための会議が開かれ、重臣たちの意見では「降伏すべき」という意見が多かったのです。しかし、周瑜は主戦論を展開し、それにはかなりの説得力や圧倒する弁舌があったといいます。
孫権はそれに発奮し、剣で机を斬り落とし「今後、曹操に降伏するなどと言うものはこの机と同じ目に合うと心得よ!」と重臣を鼓舞したのです。
大軍の曹操を撃退するため、周瑜は策を練りました。それは偽装の降伏で曹操軍に近づき、密集した曹操の軍船を焼き打ちにすることでした。
作戦は成功し、この「赤壁の戦い」で曹操軍は大敗、天下統一は遠のき、「魏呉蜀」の三国鼎立が近づきます。
今後も活躍が期待された周瑜ですが、36歳の若さで亡くなってしまい、孫権は大いに悲しんだといいます。
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「呉下の阿蒙」で知られる「呂蒙」
「呂蒙」は若いころに孫策に認められ、「赤壁の戦い」など各地の戦いで戦功を上げました。しかし、彼は正式な学問をしたことはありませんでした。
孫権はそんな呂蒙に学問をすすめ、一念発起した呂蒙は学者も驚くほどの学識を身に着けたといいます。
それを知った「魯粛」が「もう呉下(呉の町)の阿蒙(蒙ちゃん)とは言えないな。」と言ったことが「呉下の阿蒙」という成句につながります。
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策で関羽を破る「呂蒙」
呂蒙はのちに関羽と隣接する領地に赴くことになりました。呂蒙は病気を装い任地から離れ、油断した関羽は呂蒙に対する兵力を減らし、最前線に兵力を割きました。そこを呂蒙は急襲し、難なく関羽の根拠地を占領しました。
そこで呂蒙は略奪行為を禁じ、関羽の兵士の家族、領民に手厚い援助をしました。また、詰問してきた関羽の使者も歓迎し、安定したその領土も見せたのです。関羽の部下たちはそれに安心し、すっかり戦意が喪失してしまい、関羽軍はあっけなく呂蒙軍に撃退されてしまいます。
そして関羽を捕え斬ることに成功したのです。なお、呂蒙は関羽を斬ったせいで小説「三国志演義」等では悪者にされがちですが、策に長じた優れた武将でした。
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「夷陵の戦い」で劉備を破る「陸遜」
先述の呂蒙の関羽戦の際の陰の立役者と言えるのが「陸遜」です。彼は名門の出ですが、まだ無名の武将でした。しかし呂蒙に推薦され彼の後任になることになりました。
陸遜は任地に赴く際、関羽に「私はまだ若造で、関羽将軍の任地近くに赴任し、御威光に接することはこの上ない幸せです。」というへりくだった手紙を送り、関羽を油断させることに成功します。
それが結果的に関羽を討つことにつながるのです。
その後、劉備は関羽の復讐のために呉征伐に動きます。そこで責任者に任命されたのが陸遜でした。
彼は守りを固め、討って出なかったため、諸将に侮られますが、陸遜は「これは主(孫権)の命令である」と剣を抜いて叱咤し、のちには火攻めで劉備軍を撃退(夷陵の戦い)、皆に認められることになるのです。
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三国志ライターみうらの独り言
以上、孫呉の「軍師」3名を紹介しました。魏や蜀に比べ、活躍が地味な呉の武将たちですが、それに対抗できる優秀な武将がそろっていました。そのような人材を発掘できた孫権の見る目も優れていたのでしょうね。